宗教を科学で説明する

Economistの記事、"Where angels no longer fear to tread"からいくつか箇条書きでメモ。
http://www.economist.com/daily/news/displaystory.cfm?story_id=10903480&fsrc=nwl

・“Explaining Religion”という、これまでで最大規模の「宗教を科学的に探求する」プロジェクトが、昨年9月に開始された。今後3年間継続される。予算は3億円程度。(ホームページ見つからけれど)
・これまでの研究でわかっていることをまとめよう。

脳科学的基盤
パーキンソン病の患者はドーパミンのレベルが低い。パーキンソン病の患者には宗教心があまり確認されない。よって、ドーパミンのレベルと宗教心には何らかの関係があるのではないか。今後は、ドーパミンの作用をブーストさせる薬を服用している人たちを研究して、さらに調べていく。(Patrick McNamara)
・宗教心には、脳のどの部位が関わっているのか?先行研究では感情を司る部位である辺縁系が宗教心に関連しているといわれていたが、論理的思考を司る部位である大脳新皮質こそが宗教心に関わっていることを示す(PET法を用いた)研究結果も出始めている(Nina Azari)

■進化的基盤
・同じ宗教を信仰することによって、他者と長期間にわたり協力的な関係を結ぶことができるというメリットが、(たとえば「毎日お祈りしなければならない」といった)宗教が短期的に課してくるコストを上回ったため、宗教心が進化してきたのではないか(Richard Sosis)
・宗教的な行為は面倒臭いし、大きなコストがかかる。信じている「フリ」をするのは非常に難しい。だから、ある宗教を信仰するという行為は、(その宗教を信仰している)集団に本気でコミットしていることを示すシグナルになったのではないか。いわば、ある集団に紛れ込み、ただ乗りしていく者(フリーライダー)を排除する機能を宗教は持っていたのではないか。つまり、宗教が存在したおかげで、ある人がフリーライダーかどうかを監視するコストを省くことができたのではないか。(Richard Sosis)
・世俗的な共同体よりも宗教的な縛りをかけた共同体の方が長持ちしやすい(メンバーが協力関係を維持しやすい)という仮説が実証された(過去の文献調査+イスラエルのギブツを対象にした実験に基づいて)。共同体にルールが存在するだけではダメで、そのルールが神聖化(宗教化)されたとき、共同体は維持力を増すのだ。「共有地の悲劇」は、宗教心によって進化的に解決されてきたのではないか。
・被験者にお金を配分させる実験(dictator game)において、実験者があらかじめ宗教的な単語を被験者に連想させたときには、被験者が他者に配分するお金の額が増えた。つまり、宗教的な単語を意識させると、被験者はより利他的な行動を取るようになった。しかし、「市民」「契約」「裁判所」などの世俗的な言葉を質問文に交ぜたときにも被験者がより利他的な行動を取ることが後の研究で確認されたので、1.宗教心が利他的行動を促進したのか、あるいは2.「道徳のスイッチ」にタッチさえすれば利他的行動が促進されるのか、決着は付いていない(Ara Norenzayan)。
・とはいえ、「神」であれ「市民」であれ【超自然的な存在】を意識させると利他的行動が促進されるのだ、とする議論もある(Jesse Bering)。【超自然的な存在に監視されている】という意識が肝なのではないか(Stephen JeffreyDr Bering)。
・individual selectionにもとづき宗教の進化を説明する研究者(Jason Slone)と、group selectionにもとづきそれを説明する研究者(David Sloan Wilson)の、2パターンが存在する。
・宗教の適応的意義が科学によって明らかになれば、神が実際に存在しようがしまいが、最終的に勝利するのは神といえるのだろう。

【現在】の正しさと【過去】の正しさ

【ドキュメンタリー】特殊メイクで白人⇔黒人の顔を交換して生活
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2024350

 これはアメリカの番組。白人の一家が特殊メイクによって全員黒人に変身し、逆に、黒人一家が特殊メイクによって全員白人に変身する。そしてお互いがひとつの家に数週間のあいだ一緒に暮らし、それぞれが社会的生活を営んで、「黒人とはなにか」「白人とはなにか」「差別はいまでもあるのか」などなど、感じたことを語り合っていこうとする企画。気楽な番組だけれども、わりと面白い。ニコニコのコメント形式で字幕が付いているが、コメントを消して、リスニングの練習をしても楽しいと思う(CNNとかお堅いものを聞くよりも、楽しい番組を観てリスニングを勉強するのが一番だと思う/少なくとも自分はそうしている)。

 こんな場面がある。白人に扮した黒人のパパと、黒人に扮した白人のパパが、一緒に街の通りを歩いている。目の前から白人の通行人が歩いてくる。その白人の通行人は、2人をスッと避ける。それを見て、白人に扮した黒人のパパは、このような趣旨のことを言う。
「あぁ、まただ。白人はいつだって黒人のことを避けるのさ。いいかげん、あなたにもそのことがわかってきただろう」
 それに応じて、黒人に扮した白人のパパは言う。
「いや、なにを勘違いしているんだ。彼らはただ単に道を空けてくれただけさ。なぜいつも君は相手の中に差別意識を見出そうとするんだ。君は<差別>を必死になって発見しようとしている。だからいつも「差別されている」と感じるのさ。いろんな人がいる。誠実な人もいれば、醜い人もいる。なぜ「白人だから○○」と決めつけるんだ。個人個人をきちっと見ていこうじゃないか」
 再び、白人に扮した黒人のパパが応じる。
「ほんとに君と喋っているとイライラさせられる。なぜわからないんだ。君は白人の中にある差別意識を見たくないだけなんだ。差別など存在しないと思い込みたいから、黒人の姿をした自分が経験したことを直視しようとしないんだ」

 そして鑑賞者である自分は、「どちらの言い分もわかるよなぁ」と、ため息をつく。

1.もし【今現在】しか存在しないのであれば、おそらく白人のパパの言い分が正しい。相手の些細な行動にまで「差別意識」を発見し、相手に改心を迫るような行動は、まったくもって生産的じゃない。
2.しかし、黒人は【過去】の差別されてきた記憶を抱えている。今現在の現実認識が過去の記憶に引きずられてしまうのは、ムリもない。過去に差別された記憶があるから、黒人はつねに警戒し続けるし、相手の些細な行動にまで敏感になり「差別意識」を発見してしまう。
3.白人のパパは「【今現在】を直視しようよ」と黒人のパパに訴えかけている。これは正しい。一方、黒人のパパは「【過去】を決して忘れないでくれ。【過去】に対して繊細な想像力を働かせてくれ」と白人のパパに訴えかけている。これも正しい。

 どちらも正しいことを言っている。だからこそ、絶望的にコミュニケーションがすれ違ってしまう。白人のパパは差別された過去の記憶を持っていない。一方、黒人のパパは差別された記憶を抜きにして現在を直視することができない。【今現在により良く対処するための方法】という点では、白人のパパに軍配が上がる。だから、白人のパパは黒人のパパに対して苛立ちを見せる。しかし、【過去を直視した現在の認識】という点では、黒人のパパに軍配が上がる。だから黒人のパパは白人のパパに対して苛立ちを見せる。

 これって、<白人/黒人>に限らず、多くのケースに確認される構造だと思う。どちらも正当な理由に基づいて、しかし全くすれ違ってしまう事が、結構あるはずだ。もし【現在】と【未来】しか存在しないのであれば、世界中の諍いや殺し合いは感動的なほど減少するだろう。しかし、人間は、それぞれの【過去】を抱えている。【過去】が【現在】に大きな影を落とし、【現在】が絶望的に曇り始める。

 自分にできるのは、そのような構造をただただ凝視し続けることだけだ。

ニコニコを継続的に発掘中

http://b.hatena.ne.jp/Gen/20080322
これまで発見できなかった貴重な映画やらアニメやらドキュメンタリーを(扱っている誰かのリストを)発掘。夜のお供にぜひ。というか、ニコニコさえあればそれだけで超文化的な週末を送ることができるよなぁ。これは凄い。もちろん、速攻で削除されるだろうから、その気な人はお早めに。保存に一番使いやすいのは、Tagiri toolbar。
http://tagiri.jp/toolbar/
ワンクリックで題名をファイル名にしてくれるのがありがたい。

(追記)今夜寝るまでに1本観るなら、このドキュメンタリー。なんというか、人間として観ておくべきだとは思う。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2341956

売春窟に生まれて(Born into Brothels) 1/8

 インドはコルカタのある村。ここの女性たちは代々売春婦として日銭を稼ぐ。初潮が過ぎる頃にはストリートに立って客をとらされるのだ。その村に取材に訪れたカメラマンのカメラに興味を示す好奇心旺盛な子供たち。彼らの撮った写真は村の表情を鮮やかに写していた。字幕は自作です。不明な部分はスルーもしくは脳内補完でお願いします。

衣服に付着した煙草の匂い、という問題

 これは結構繊細な問題だと思う。もし副流煙ならば、吸い込んだ人は必ず健康的な被害を受ける。だから、喫煙者に対する厳しい規制が社会的に正当化される。しかし、匂いについては微妙かもしれない。衣服に付着した匂いが(非喫煙者に対して)健康的な被害を及ぼすことを実証した研究は存在するのだろうか?*1もし存在しないとすれば、「副流煙」の問題と「匂い」の問題は、分けて考えるべきだとは思う。

 たとえばものすごく肥満体の人が夏場に汗をかいていると、かなり不快な異臭がしばしば発生する。あるいは、香水をむんむんにつけた女性に近づくと、思わず吐きそうになってしまう。また、豚の腐臭をまき散らす豚骨ラーメン屋…などなど。もし「衣服に付着した煙草の匂い」が健康に対する実害を及ぼさないのであれば、それは「健康」とは別のコンテクスト、つまりこの種の「匂いが及ぼす不快感を社会的にどうマネッジするか」という問題として考える必要がある。

 この種の「匂いのマネッジ」問題は、比較的繊細だ。健康に対する実害が無いならば、「煙草の匂いが一切してはダメ!」という主張を無条件に正当化する根拠はなくなり、むしろ「香水臭いおばさんをどう扱うか」という「各人の利害の調整」的な話になってしまうからだ。もっとも、「香水おばさん」が嫌われるように、煙草の匂いをまき散らす人が皆から避けられても当然だとは思うけれども。*2

*1:誰か教えてください。

*2:もちろん、サッと脱臭できる装置が開発されたならば、それが(喫煙者にとっても非喫煙者にとっても)一番望ましいのだろうけれども。

ジャック・デリダは煙草をどう語ったか

 煙草とは何か。一見すると、それは純粋で贅沢な消費の対象である。見かけは、この消費は器官のいかなる自然な欲求に答えるものでもない。それは純粋で贅沢な、無償で、それゆえ高価な消費であり、見返りのない出費なのだが、それがある快楽を生みだす。この快楽を、声と口唇という自己−触発にもっとも近い摂取の部位を経由して、人がみずからに与えるのである。その快楽からはなにも残らず、その外的な記号そのものも跡形もなく、煙となって消えてしまう。もしも贈与があるならば――とりわけ人がなにかを、なんらかの情動なり純粋な快楽なりをみずからに与えるならば、煙草を吸うことに与えられる許可に対して、贈与は本質的な、少なくとも象徴的で寓意的な関係を持ちうるのである。以上が少なくとも見かけである。それはさらに分析されなければならない。(『時間を与える』より)

 相変わらずのデリダ節だけれども(苦笑)、この種の感覚は、喫煙者の多くが持ち合わせているのではないかと思う。そしてこの感覚は、煙草のけむり(smoke)を通して先鋭化される。ゆえに、smokeは多くの物語的想像力を刺激し続けてきた。たとえば、ハーヴェイ・カイテルが名演技を魅せた素晴らしき映画、『Smoke』とか。まぁ、ただそれだけのお話、与太話ですた。

喫煙車両や喫煙席など無くしてしまえ

 昨日書いた「タバコと喫煙について」*1のつづき。喫煙する側の人間として強く思うけれど、たとえば新幹線などに設置されている喫煙車両や、飲み屋における喫煙席は、一切不要だと思う。

 自分が一番タバコを吸っていた時期ですら、新幹線の喫煙車両に座ることは決してなかった。だって、他人が吐き出した副流煙を吸い込むと、煙たくて不快で気持ち悪くなってしまうから。喫煙者にとっても、他の喫煙者が吐き出す煙は不快なのだ。自分が吸っている時以外に、他者が吐き出したタバコの煙など吸い込みたくはない。その点、新型の東海道新幹線は素晴らしくて、【全席禁煙+一部に喫煙スペース】という構成になっている。これがベスト。他人が吐き出した煙が舞う喫煙所は「魔界」なのだけれども、自分が吸いたいときだけ「魔界」にアクセスする、という自由が保障されていて欲しい。<全面的に吸う環境か/全面的に吸わない環境か>という二分法は勘弁してくれと思う。

 飲み屋だってそうだ。居酒屋が基本的に全席喫煙可能になっているのはオカシイ。喫煙席/禁煙席というカタチで座席が別れているのもオカシイ。正しくは、【全席禁煙+一部に喫煙コーナー】という構成であるべきだ。「お手洗いにいってくるね」と座席を立つように、「吸ってくるね」と座席を離れれば良いだけの話だ。その点、モンスーンカフェなどを運営しているグローバルダイニングが「全席禁煙+喫煙コーナー」という構成を取る決断を下したことには、心の底から拍手を送りたい。*2

 喫煙者にとってすら、他人が吐き出した煙は不快なのだ。まして非喫煙者なら言うまでもないだろう。喫煙は、基本的に他者に不快感を与える行為であり、トイレでおしっこをしているようなものだ。だから、パブリックな空間からは隔離される必要がある*3。このように、分煙については「お手洗いモデル」がベストなのだろうと思う。たとえば大学や会社の構内に入る出入り口に無造作に灰皿が置かれていたりするのだが、これもちゃんちゃらおかしい。建物に出入りするすべての人が、なんで喫煙者が吐き出した煙を吸わなきゃいかんの?と感じる。トイレのように喫煙所を隔離しておけば、他人の「しょんべん」行為に巻き込まれる必要などなくなるのに。中途半端にパブリックな場所に喫煙所をしつらえるのは絶対に止めた方が良い。

 喫煙スペースがきちんと隔離&確保されていないから、非喫煙者までもが煙に巻き込まれてしまうんだよ。たとえば女Aが男Bのことを好きで、二人がレストランに入ったとき、男Bが「俺タバコ吸いたいから喫煙席に座ってもいい?」と訊けば、女Bは「いいよ」というしかないし、そうすると、食事中嫌な煙をずっと我慢をせざるをえなくなる。もし全席禁煙で喫煙スペースが分離確保されていれば、そのような悲劇は生じない。

 非喫煙者が喫煙者に対して感情的に憤るのは、「なんで吸わない俺が吸うヤツのコストを不当に負担しなければいけないんだ?」と感じた時である場合が多い。喫煙者が喫煙行為に伴うコストをきちんと負担するならば、感情的な諍い抜きに分煙体制を構築し、両者が共存できるのだと思う。たとえば、大学に喫煙所を設置する際には相応の費用がかかるのだが、それを非喫煙者が間接的に負担しなければならないのはおかしいというならば、喫煙所に出入りする人たちからお金を徴収すれば良い。定期券のような形で。で、喫煙所以外で吸う人間は厳しく取り締まる。これは必要。

 結論。「吸う人間はダメ」という形の道徳的議論ではなく、「喫煙者が喫煙時に応分の喫煙コストを負担する」という形で経済学的に考えていくべきなんだろーな、と。経済学的な話以外にもあれこれ喫煙者を責めるから、「禁煙ファシズムだ」なんて騒がれたりもするわけで。喫煙問題は、経済学的なコストとインセンティブの話です。冷静にいこーよ、と*4

*1:http://d.hatena.ne.jp/amourix/20080320/1206034884

*2:http://nr.nikkeibp.co.jp/topics/20070911/

*3:シガーバーなどそれ専用に作られた場所を除けば

*4:子供を産む際に親が喫煙して良いのか云々という話は、個別に論じる必要があるだろうけれども

恋人たちは富士山に登った方がいい

 ここ数日所用で東京を離れ各地を転々としていたんですが、富士山のふもとに立ち寄ったとき、現地のおっちゃんから聞いた話。

1.富士山は「別れの山」として有名
 「登山デートだ!」と意気込んで出かけたものの、実際に富士山に登た場合、降りてきた直後に別れてしまうカップルが非常に多いのだとか。早い話が、【体力的な極限状態に追い込まれる→その人の素性が垣間見える→幻滅→別れ】というお話。もちろん、普段の日常生活でも、どちらか片方が肉体的に追い詰められることは多々ある。でも、両者がともに等しく高負荷をかけられるケースは、滅多にない。「俺はおまえより疲れてるんだ」という言い訳が成立しない状況で、どれだけ相方を思いやることができるのか?結婚前に富士山に登っておけば、いいリトマス紙になると思う。

2.なぜ富士山は頂上付近だけ白く雪化粧されているように見えるのか
 それは中腹部より下には木が生えているから。遠くから富士山を見たとき、白く見える部分以外でも、実際には雪が積もっている。しかし、高度が低い所には木が生えているので、雪が木によって覆い隠されてしまい、ゆえに黒色(茶色)に見えるそうな。まぁ、考えれば当たり前の話なんだけれども、ちょっぴり目ウロコ。