選挙雑感

 おそらく自民党に投票するでしょうね。現在の自分の「熱意の配分レイヤー」( http://d.hatena.ne.jp/amourix/20100526/1274890806 )としては、1.経済政策が70%くらい、2.外交政策10%、あとはその他諸々といった感じ。基本的な見立てとしては、finalventさんのhttp://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/12/post-2895.htmlに非常に近い印象を持っていて、

三党合意の(1)消費税増税だが、私は、基本的には反対。
 だが、政権が安定しない状態となった今、単に反対というわけにもいかないし、長期的には消費税増税は避けられない。
 するとそこでの一番の問題は名目成長率を上げることで、最低でも2パーセントのインフレターゲットが欠かせない。
 その点で安倍自民党は、この間の話を聞いていても信頼に足るように思えた。ただし、自民党の他の政策はというと、相も変わらぬ状態。それでもその部分は次期参院選で、以前の安倍政権のように是正されるだろうし、実質三党合意以上の政治に手を出す余裕など日本にはないだろう。

という感じ。

 でも根源的に、私には経済政策がわからない。付け焼き刃の金融や経済学に関する知識からは、【何が本当に円滑な経済運営に取って正しい政策なのか】が見えてこない。というのは、学問的に厳密な意味で、最適解が自分には把握不可能だし、それらを専門としている研究者には適わないという意味で、根源的な無力感に襲われている。この無力感は、超絶的に根源的である。リフレで経済が良くなるの?そんなの知らんがな。経済学を専門にしている人間より精度の高い判断が下せるはずがない。原理的に。

 そもそも、【何が(どの政策が)事実問題として(合理的に)正しいのか】という「factsの確定」問題においては、プロの研究者に適うわけがないのだ。事実の認定は科学的に行われるべきだ。経済問題に関して、私の出る幕ではない。「市民感覚」なんてくそ食らえだ。その意味で、極論すれば、あらゆる人間はこの領域において無力である。私がなし得るとすれば、「どの問題領域が重要なのか」を決める「熱意の配分レイヤー」における意思決定、ないしは「(事実の問題ではなく、価値観や倫理やイデオロギーや規範の問題として)何を為すべきなのか」という規範的な意思決定である。これは、事実や科学の問題を超えて、己の意志によって、時に非合理的に道調べを選び取るべきだということ。この領域においてしか、市井の市民はポジションを確立しえないのではないか。

 「〜である」という事実の認定においては、自分の専門領域以外は口をつぐめ。科学を基本的に信頼する私は、本当にそう思うのだ。おまえが真剣に頭を使ってなし得る貢献がありうるとすれば、「何が重要な問題かに関する優先順位の振り分けという意思決定(熱意の配分)」、ないし己の価値に基づいてどうしても選び取るべき価値観を擁護するための「〜べきである」という規範的な意思決定以外にあり得ないのではないか。何が大事かを考えろ。どうすれば解決できるかは考えるな。そんな、悪魔の囁きが重くのしかかる。

リベラリスト、リバタリアン、宗教左派、保守主義者の5つの認知的道徳的基盤 in USA

 試みとしては好きです。いくつかメモ。


Haidt, J., Graham, J., & Joseph, C. (2009). Above and Below Left–Right: Ideological Narratives and Moral Foundations. Psychological Inquiry: An International Journal for the Advancement of Psychological Theory, 20(2), 110 - 119.


イデオロギーの科学的研究は3レベルに分けられる


レベル1:傾向的特性(dispositional traits) - イデオロギーを支えるもっとも低次な認知的要素であり、文脈から影響を受けにくい。たとえばパーソナリティ特性のBig5、disgust sensitivityなど。
レベル2:特徴的適応(characteristic adaptations) - イデオロギーを支えるレベル1よりは高次な認知的要素であり、文脈や条件などに影響を受ける。values, goals, attatchment styles, defense mechanisms(価値、目的、愛着スタイル、防衛機制)など。
レベル3:ライフストーリー - 個人が自らのイデオロギーをどう認知しどう語るのかについての次元(なぜそのイデオロギーを持つに至ったのか、そのイデオロギーはどのようなものか、自分はどう関わっているか、についての語り)。


・レベル1の認知的要素は、実験的な操作によって影響を受けにくい。したがって、それは独立変数としては用いられない。他方、レベル2の認知的要素は、実験的な操作によって影響を受ける。したがって、それは独立変数や従属変数両者として用いられる。
・レベル3のライフストーリーもある個人のイデオロギー(の認知やそれに基づく行動)に影響を与えるという意味において行動科学の研究対象となるべき(トラウマ的経験について物語を語ると記憶が適応的に書き換えら健康に良い影響が出るという研究結果(Pennebaker, 2000)を参照


イデオロギーの心理学的研究は花盛り


・レベル1とレベル2についての研究は進んでいる(Braithwaite, 1998; Jost et al., 2003; Sibley & Duckitt, 2008)
・たとえばレベル1の研究とは、パーソナリティ特性とイデオロギー嗜好との関係を調べた研究。Big Fiveにおける「経験への開放性」スコアが高い人はリベラルな価値観を持ちやすい(相関している)(Jost et al., 2003)
・しかし、レベル3についてのイデオロギー研究はほとんど進んでいない(例外はHammack, 2008; Jensen, 1998)
・本論文では、筆者(Haidt)お得意のMoral Foundation Theory※とイデオロギーについてのライフヒストリー研究(レベル3)を結びつけてみせるよ。


※人々の倫理的思考や道徳的価値観を支える5つの認知的基盤があるとする仮説的理論。若干不正確ながらも以下と下表を参照 http://plaisir.genxx.com/?p=187



■Moral Foundation Theory(以下MFTと略記;道徳的基盤理論)について注釈をいくつか


・5つの道徳的基盤は味の受容器(甘みの受容器、苦みの受容器etc)のようなもの。誰もが5つの受容器をもっている。しかし、道徳的な料理法(cuisines)は世界中で異なっている。
・世界中のさまざまな文化は、種々の方法で5つの基盤の上に独自の(道徳的)文化(価値、規範、美徳、悪、制度、宗教etc...)を打ち立てている。
・5つの道徳的基盤をオーディオのイコライザーの5つのスライドスイッチみたいなものだと想定してみよう。各スイッチが11段階調節可能だとすれば、理論的には161,051通りの道徳的パターンがありうることになる。


・5つの道徳的基盤を測定するための質問紙(心理測定尺度)はちゃんと作ったよ(MFQ)
Graham, J., Haidt, J., Nosek, B., Iyer, R., Koleva, S., & Ditto, P. (2010). Mapping the moral domain. Manuscript submitted for publication.
・5つの道徳的基盤自体はさきほどのイデオロギーの3レベル分類でいえばレベル2に相当する。
・しかしわたしたちのイデオロギー体験を十全に明らかにするには、3つのレベルすべてでの研究が必要。


■今回の研究では


・Webを使ってアメリカ合衆国在住の実験参加者のみから約25,000人分のデータを集めてMFQ(5つの道徳的基盤を測定するための質問項目)をやらせた。
・目的は、MFQのスコアに基づいて実験参加者をいくつかのクラスターに分類し、その後、それぞれのクラスターをさまざまな要素(たとえば人口統計的要素、パーソナリティのBig Five, 他のイデオロギー尺度など)によって特徴付けることだった。
・つまりクラスター分析にかけた。
・結果のグラフを以下に示す。


■どういう結果か


・早い話が、25000人のデータから約4つのクラスターが抽出された。
・グラフの縦軸はMFQ(5つの道徳的基盤を測定する質問項目)のスコアを、横軸は4つのクラスターを、各グラフの棒線はHが「Harm/Care」という道徳的基盤を、Fが「Fairness/Reciprocity」という道徳的基盤を、Iが「Ingroup/Royalty」という道徳的基盤を、Aが「Authority/Respect」という道徳的基盤を、Pが「Purity/Sanctity」という道徳的基盤をあらわしている。
・抽出された4つのクラスターは、他の質問項目との関連から、以下のように(研究者によって)ラベル付け(命名)された。
・Secular liverals(世俗的リベラル主義者)、Libertarians(リバタリアン)、Religious Left(宗教左派)、Conservatives(保守主義者)。


・上のグラフが示しているのは、それぞれ左から、リベラリストリバタリアン、宗教左派、保守主義者が、それぞれ5つの道徳的基盤スコアにおいてどれくらい得点したのか、ということ。
リベラリストは、Harm/CareとFairness/Reciprocityを重視するけれど、Ingroup/Royalty、Authority/Respect、Purity/Sanctityを軽視する傾向がある。つまり、他者を害することを拒むこと、他者を助けること、他者を公正に扱うことを重視するけれど、内集団への忠誠心とか、権威への尊敬だとか、神聖なるものの神聖さを保つことへの配慮に欠けている。これは以前ブログに書いた先行研究と一致する結果。
保守主義者は、Harm/Care、Fairness/Reciprocity、Ingroup/Royalty、Authority/Respect、Purity/Sanctityすべてを等しくバランス良く重視する傾向がある。ただし、リベラリストや宗教左派と比較すると、Harm/Care、Fairness/Reciprocityの得点ががくっと落ちている。つまり、他者を害することを拒むこと、他者を助けること、他者を公正に扱うことを、リベラリストよりも相対的に重視しない。これらも先行研究と一致したデータだ。


■面白いのはここから


・今回の研究が面白いのは、リベラリスト←→保守主義者という従来の右左の軸を超えて、新たにリバタリアンと宗教左派というクラスターを抽出したところ。
リバタリアンは、Ingroup/Royalty、Authority/Respect、Purity/Sanctityを重視しないという点においてはリベラリストに似ている。しかし、Harm/Care、Fairness/Reciprocityをどれだけ重視するかという点においては、保守主義者とほぼ同じ傾向を示した(!)。
・つまり、リバタリアンは、他者を害することを拒むこと、他者を助けること、他者を公正に扱うことを(リベラリストと比較した場合相対的に)重視しないという点においては保守主義者と同じである。しかし、内集団への忠誠心とか、権威への尊敬だとか、神聖なるものの神聖さを保つことへの配慮に(保守主義者と比較した場合相対的に)欠けているという点においてはリベラリストと同じなのである。
・他方、宗教左派は、Harm/Care、Fairness/Reciprocityを重視するという点においてはリベラリストに似ている。しかし、Ingroup/Royalty、Authority/Respect、Purity/Sanctityをも高い水準で重視するという意味においては、保守主義者に似ているという傾向を示した(!)。
・つまり、宗教左派は、他者を害することを拒むこと、他者を助けること、他者を公正に扱うことを(保守主義者と比較した場合相対的に)重視するという点においてはリベラリストと同じである。しかし、内集団への忠誠心とか、権威への尊敬だとか、神聖なるものの神聖さを保つことへの配慮を(リベラリストと比較した場合相対的に)重視するという点においては保守主義者と同じなのである。


■続いて、レベル3のイデオロギーについての物語的な語り(ライフストーリー)とMFTの絡みについて書かれているが、以下略。

DeScioli, P., & Kurzban, R. (2009). Mysteries of morality. Cognition, 112(2), 281-299. doi: S0010-0277(09)00114-0 [pii] 10.1016/j.cognition.2009.05.008

いくつかメモ。
Sum:道徳性(morality)は良心(conscience)だけから説明しようとしたら難しいねん。良心それ自体によって道徳的な行動を説明できるわけやないねん。己の行動をチェックする第三者の存在があるからこそ自己の行動を自身でモニタリングする良心なんてものに適応的意義が生まれてくんねん。また、moralityと利他性は異なるものやねん。

■1.Introduction
・適応主義(適応論的な考え方)を採用すれば、機能から構造を、構造から機能を推測できるようになる。したがって本論文では適応主義を採用する。
・morality(道徳性)は、他者からの激しい非難/有罪宣告(condemnation)を避けるために存在しているのであり、良心(conscience)は第三者(他者)からの有罪宣告に対する防御システムとして機能している。すなわち、非難/有罪宣告メカニズム(condemnation mechanisms)が良心に因果的に先行していることを明らかにする。
・道徳的な非難システム(moral condemnation systems)の機能についての研究と議論はこれまでほとんどなされていない。本論文ではそれを取り扱う。

■2.The moral dimention
・道徳的な善悪が議論されるとき、「善←→悪」という軸(次元)自体は自明視されている。近親相姦が「悪」、利他的行為が「善」だとされるのはなぜかについての研究と、なぜ人間は「善←→悪」という軸(次元)を持っているのかについての研究は異なる。本論文では軸(次元)そのものを研究対象とする。
・「善←→悪」という次元は、「許可/禁止」(permissible/forbidden)、「合法/不法」(lawful/unlawful)という次元と同一ではない(Macnamara, 1991)。主要な証拠は発達心理学の知見に基づく。3歳くらいの子供は、道徳的な規則を、権威・慣習・明示的な規則とは別物だと見なす。たとえば子供たちは、権威者によって他者に危害を与えるよう命じられたとしてもしばしば従わない。髪型のような個人的な事柄に対して規則を押しつけられた場合には突っぱねる。さらに、子供たちは、不公平な法律を侵犯した人間を非難しない。
・つまり、「善←→悪」という軸(次元)自体が、たとえば近親相姦が悪とされるのはなぜかといったcontent domain(対象レベル)の説明とは別に、説明される必要がある。
・軸はどうやって進化してきたのか。軸自体にかかった淘汰圧は何か。

■3.The problem of morality
・道徳的な相互作用は、意志決定し相互に影響を与え合う複数の個人を含む。ゲーム理論のタームでこの状況を記述することができる。犯人(perpetrator)、犠牲者(victim)、第三者としての有罪宣告者(third-party condemner)が織りなす戦略的状況について考察する。

・ある個人は、道徳的な戦略的状況において、犯人、犠牲者、第三者としての有罪宣告者のいずれにもなり得るし、事例ごとに立ち位置を変化させている。
・本研究では道徳的非難に焦点を当て道徳的賞賛(praise)は扱わない。というのは、大人においても子供においても非難の方が賞賛よりもずっと数多く人々の話題に上ることが実証的に明らかになっているし(Wiessner, 2005)、法システムは宣告する存在だから。
・第三者としての有罪宣告者が直面する問題は、犯人の違反行為を検知し判断し罰を与えること、そしてさらなる他者のサポートを集め逆襲を防ぐこと。罰するコストを最小にするため他者の助けを集める必要がある。
・犯人が直面する問題は、第三者に違反が検知され罰されないよう違反を隠すこと、そして被害者に復讐されないようにすること。
・被害者が直面する問題は、犯人からの被害をできるだけ小さくすること、そして第三者の援助を可能な限り集めること。
被害者が助けを求めたとき、助けを与えるか否かを決めるのは第三者。被害者の道徳的判断はあくまで派生物なのであり、実効力のある(犯人を打ちのめすことができる)道徳的判断を下すのは第三者

・恥、当惑、罪悪感といった自己意識的な感情は(三項関係の戦略ゲームにおける)犯人というポジションにて進化したのだろう。軽蔑、怒り、嫌悪という他者批判的な感情は、第三者というポジションにて進化したのだろう。
・シグナルを受容するシステム(たとえば言語を理解するシステム)が進化しなければ、シグナルを発するシステム(たとえば言語を産出するシステム)は進化しない。アナロジカルにいえば、非難(condemnation)システムはは言語産出システムに、良心(conscience)システムは言語理解システムに相当するのだろう。

■4.Is morality conscience-centered?
・歴史的に進化理論研究者は、道徳認知に対して、良心中心主義("conscience-centered")の説明を行ってきた。どのような良心によって彼/彼女は近親相姦を避けるのだろう?といった具合に。すなわち、犯人のポジションにいる存在が持つmoralityという良心によって道徳的行動が生じるのであり、第三者による非難はあくまで副産物にすぎないと考えてきた。
・主に良心中心主義的な説明がなされてきたからこそ、moralityと利他主義を結びつける議論が数多く存在してきた。現代の理論家の数多くはmoralityとは利他性を生み出す装置だと考えている。
・しかし、利他性の理論をmoralityを説明するために用いる理論は古くさい。本論文では新しい見方を提示する。
人間の良心は、第三者による非難から切り離して説明することはできないのである。

・良心(conscience)とは、「善←→悪」という道徳的概念(軸)を用いる認知システムに与えられた名称である。
・道徳的な意志決定は、結果だけではなく、意図や行動そのものに着目するという特殊性を持っている。この特殊性は他の意志決定領域ではみられない。moralityの外側で、結果ではなく行為それ自体に執着する人は、強迫性障害だとみなされてしまう。

・進化の淘汰圧は結果に対してかかる。それでは、意図や行動そのものに着目するという道徳的意志決定の特殊性はどうやって進化しえたのか。
・利他性によってmoralityを説明する理論は疑わしい。なぜなら、morality(良心)は先述したように、非結果主義的な特質をも持ち合わせるものだから。
・人間以外の動物では、利他性は結果主義的に(包括適応度の上昇という結果に従う形で)進化してきた。

・道徳的判断が道徳的な行動を実際に動機づけていることを実証した研究は驚くほど少ない。他方、道徳的判断が道徳的であるように見せかけようとする行為を動機付づけていることはしばしば実証されている(Batson, 2008)。
・非結果主義的なmorality(conscience)が進化した謎を解く鍵は、犯人、被害者、第三者としての有罪宣告者という3者が織りなす戦略的関係にある。

■5.Condemnation-centered morality
・良心は非難(condemnation)を説明しない。しかし、非難は良心を説明する。
・他者のある特定の行動を非難する人々の間では、その行動を避けるよう個人を導く防御システム=良心が進化するだろう。このシナリオでは、良心は、善悪の概念を適用することにより第三者としての有罪宣告者からの非難をかわすよう自己の行動を規制するためにデザインされていることになる。

・この「防御システムとしての良心」という考え方は、個人の道徳的価値観や基準と、その個人の実際の行動との間にある乖離をうまく説明する。
・逆に言えば、第三者としての有罪宣告者が存在しない状況では、良心は非道徳的な行動を阻害しないだろう。
・道徳的偽善(moral hypocrisy)は実験室実験でたびたび確認されてきた。

■6.Moral judgement
・なぜ人々は(自分が影響を受けないときでさえ)無関係な他者の道徳的行動をモニタリングするのだろうか?
・ヒーローものの映画が示すのは、逸脱者がきちんと罰される筋書きを人々は欲望していると言うこと。
・人々は他者の不正な行い(wrongdoing)(決してpraiseに関する情報ではない)に関する情報を求め、集め、評価し、他者とその情報をコミュニケートしようとする。なぜ?

■7.Moralistic Punishment
・当事者による仕返し(目には目を、歯には歯を;second-party punishment)と、第三者によるpunishmentを区別する必要がある。
・自然界ではsecond-party punishmentが広く見られる。人間以外の動物では、第三者によるpunishmentはほとんど見られない(動物は普通やられたら仕返しをする)
・第三者による罰行動にはコストがかかる。そのコストを埋め合わせるだけの進化的意義は何?

・人々は第三者として逸脱者を罰するためにコストを払う傾向があることが研究によって示されている(Research in social psychology on bystander intervention(Latan〓 & Nida, 1981) shows that people are often willing to incur costs to stop others’ violations. Studies have found high rates of third-party intervention for wrongdoing, including assault (65%, Shotland & Straw,1976; 44%, Fischer, Greitemeyer, Pollozek, & Frey, 2006),rape (65%, Harari, Harari, & White, 1985), theft (57%, Howard & Crano, 1974; 28%, Gelfand, Hartmann, Walder, & Page, 1973), and graffiti and littering (49% and 63%, respectively, Chekroun & Brauer, 2002).)
囚人のジレンマゲームにおいて、自分が決めた配分額を第三者に伝えると教示された実験参加者は、第三者に伝えると教示されなかった実験参加者にくらべて、3倍もの金額を支払った。興味深いことに、実験参加者は誰一人として、audienceの存在の効果を意識的に自覚してなかった。

・1.逸脱者が罰される状況を願うこと、2.逸脱者を罰したいと願うこと、の区別は見過ごされがちだが重要。
・かかるコストが異なるため(1<2)、両者の根底に存在するメカニズムは異なっている可能性がある。
・歴史的には、権力者が見せしめとして逸脱者を罰することによって、1が満たされてきた(というのが通例だった)。

■8.Moral impartiality
・道徳的な公正さ(impartiality)を願うという現象は特殊だ。なぜなら、道徳的公正は、血縁者や友人や内集団(という自分にとって大切な他者に便宜を図ること)を時に無視せよと迫るから。loyalityと衝突する。
・二者関係でみれば、道徳的な公正志向の対極にあるのはselfishness。しかし、三者関係でみれば、道徳的な公正志向の対極にあるのはfavoritism(親族、友人、所属集団に忠誠を誓うこと)
・(二者関係でみれば、道徳的な公正志向は利他性とおおまかに一致するが、三者関係でみれば、道徳的な公正志向と利他性は時に背反する)
・動物(自然界)では道徳的な公正志向がほとんどみられない。(争いが起きれば血縁者や地位の高い者の味方をする)
・大切な関係を損ねてしまうリスクを背負ってまで、なぜ人々は家族・友人・所属集団よりも時に道徳公正さを大事にするのか?
・(第三者のcondemnationを導入すれば道徳的な公正志向に説明がつく?)
・道徳的公正さという理想は通文化的に幅広く存在する。
利他主義と道徳的公正志向はしばしば衝突する。moralityと利他主義は別物だし分けて考えよう。

社会関係資本をめぐる格差拡大

 本来,社会関係資本は経済資本や文化資本とは相対的に独自でありうる.リーらも「70年代は二つのタイプの社会関係資本に分化しており,それぞれ異なる階層に強く根付いていた」と述べているが,それはまさにP.ウィリス(1977)が『ハマータウンの野郎ども』に描いた”野郎ども”の生活世界そのものであろう.彼らが経済資本においても文化資本においても不利な立場に置かれながら,その位置にあえて留まり,客観的には階層の再生産への寄与を,主観的には誇りある生活を続けた背景には,彼らの親密な仲間関係に体現される社会関係資本があったと考えられる.これに比すれば,近年生まれているのは,社会関係資本が経済資本・文化資本の従属変数化しつつある状況であるとも考えられる.

HIRATSUKA, M. (2006). Dividing the Youth Transition System, the Concept of Competence, and Social Capital(A Society of Widening Disparities and its Challenge to Education). Japanese journal of educational research, 73(4), 391-402.

政治について誰かと語り合うときは2つのレイヤーを分けた方がいい

 自分は周知の通り民主党が大嫌いで小沢は脳梗塞でも起こしてとっとと消えてくれくらいのことは平気で思っているけれど、たとえば教育の問題に重きをおく教育社会学者が民主党自民党よりも支持することには理解を示せる。そりゃそうだ。たしかに教育という問題領域に絞った限りにおいては、民主党の方が「まだマシ」という様相を呈していると自分も思う。問題なのは、わたしにとって教育の問題はそれほど大きなウエイトを占めていないけれど、教育社会学者の彼(彼女)にとっては大きなウエイトを占めているということ。この場合、教育社会学者の彼(女)が「教育政策において自民党よりも民主党の方がマシだ」ということをわたしに納得させることができたとしても、なおわたしは民主党を支持しないだろう。その場合、彼がわたしに熱っぽく民主党支持を語ることにどんな意味があるというのだろう。

 政治についての意思決定は二つのレイヤーを孕んでいる。

1.数多ある諸問題(経済政策・外交・軍事・教育・家族・保健衛生etc)の中であるひとつの問題にどれだけのウエイトを置くかという熱意の配分レイヤー
2.その問題についてどういう価値観・政策を支持するかという実質的議論のレイヤー

 1がすれ違っている当事者たちが2について語り合うことが無意味だとはいわない。わたしと教育社会学者が教育について語り合い相互に価値観を戦わせ理解を深めることは有意義だろう。ただしそこに政党支持の問題を絡ませるな、と思う。彼がいくら熱っぽく教育問題を2のレベルで語ってわたしが彼の意見に賛同したとしても、1のレベルにおけるウエイトの配分比率が大きく食い違っていれば、政党支持というレベルでは話がかみ合わない。「どうしてこんなにひどい政策を行う**を支持するのか!」と怒られても、それは1のレイヤーにおける食い違いがそもそもあるからなのだ、ということになる。教育社会学者の彼が取るべき戦略は間違っている。彼は「いかに教育が大事な問題か」を語りわたしのなかでの教育問題のウェイトを引き上げることを狙って議論を進めるべきなのだ。

 それにしても、1(熱意の配分レイヤー)は2(実質的議論のレイヤー)にくらべて軽視されすぎている。これは大問題だと自分は思う。たとえば、ある社会的問題についての政策がいくつか出てきてどれがいいと思うかを選択しクリックしていくだけで自分と相性のあう政党を選び出してくれる「えらぼーと」(http://mainichi.jp/votematch/)みたいなシステムは、選挙時に大きな役割を果たしてくれる。毎日ニュースで政治的動向を逐一追いかけているわけではない人でも、選挙の直前にえらぼーとを行えば、自分がどの政党に投票すべきなのかを簡単に瞬時に知ることができるのだから。しかし問題は、このえらぼーとが、2(実質的議論のレイヤー)しか扱っていないことである。教育問題よりも経済問題の方が重要だ、という1のレイヤーでの価値判断をえらぼーとは掬い上げてくれない。えらぼーとでは、各問題にどれだけのウエイトを与えるかの重み付け、つまり1(熱意の配分レイヤー)が隠れてしまっている。正確にいえば、熱意の配分をえらぼーとの作り手が勝手に決めてしまっているのだ。これではいくらでも誘導可能だ。あるいはより慎重にいえば、「マニフェストに明記された主要な論点を等ウェイトで扱うことを強制し熱意の配分という問題が顕在化することをあらかじめ排除している」といったほうがいいかもしれないが。

 たしかに各問題について個別の実質的議論を深めることは政治の根幹に関わるだろう。しかし、どの問題をどれだけ重視するか、という「より」の判断こそが、政党を選ぶという形でしか政治的意志決定を表明できない選挙時には大きな問題となるだろう。参院選が近づいている。熱意の配分レイヤーに正当な光が当てられることを願う。

 P.S. 思い返してみれば東浩紀の投票貨幣の話(http://d.hatena.ne.jp/kosonetu/20060328/1143504511)って、a.どの政党に投票するかを迫る選挙では2の実質的議論レイヤーよりも1の熱意の配分レイヤーの方が効いてくる、b.にもかかわらうず熱意の配分レイヤーを現行の選挙制度はうまく掬えない(民主党自民党かという二分法でしか1の熱意の配分レイヤーについての意思決定を表明することができない)、c.したがって熱意の配分レイヤーで個々人が持っている意志をより的確に選挙時に掬い上げるために貨幣をモデルとして導入しよう、ということだったんだろうな。

東「政治…というか僕は国民国家の政治システムというか、つまり議会制民主主義みたいなものがちょっと嫌いなんですよ。つまりあれって、なんかこう、政策パッケージっていうか、昔いろんな党があった時はいいけど、まず最近そうだけど自民党民主党もあんまり政策変わらないわけでしょ?つまり、いろんな政策のオプションはあるのに全部パッケージ化して、こいつを選ぶかあいつを選ぶか、二者択一にするわけですよね?あんなの全く原始的なシステムで、あーゆーの僕ちょっと嫌いなんですけどね。だから、みんなが参加できる形で…」(中略)

東「まあ政策ごとに選挙権を分割するべきだと思います。僕は」(中略)

東「いや、でも一人一票である必要もないと思いますよ、僕は。だから、最初の生まれた段階で政策ごとにわりふった選挙権パッケージのようなものを与えて、あとはその選挙権どうしで売り買いするというような」

不明「おー。市場があるんですか」

東「だからそれは、いわゆる経済的な貨幣をいれないべきなんですけど、つまり政治的な貨幣(関与かも)を」

不明「権利は平等ってことです?」

東「つまりあの、僕は、コンテンツ産業系の選挙権は、なんか北朝鮮系関係選挙権の0.3みたいな、とかそういうような市場を作るってことですね。」(中略)

東「そうそう。結局ものを売り買いする人は自分が儲かるかしか考えてないわけじゃん。例えば、原発問題だけに関心がある人がいるとするでしょ、別にイルカ問題でもいいんだけど。でさ、原発問題にだけ関心がある人っていうのは、原発にしか興味ないわけですよ。社会全体見渡す必要ないわけ。でも、原発には妙に興味があるから、原発関係に票集めようと一生懸命するわけだよね。で、自分の他の政策関係にもっていた票の全部を売り払って、原発関係のことを集めるわけじゃん。それを彼は大変なる局所的ななんていうか、利害で動いてるんだけど、でもそういう人がいっぱいいれば、なんかそれなりに原発関係に関して言えば政策よくなったりすると思うのね。」

 P.S.2 教育問題と経済問題どちらを重視するかという相対的にマクロな熱意の配分問題だけではなく、たとえば同じ経済問題でも金融政策の問題とか消費税の問題とかいろいろあって、ミクロな問題領域間での熱意の配分問題はどんどん細分化されていく、というか入れ子構造をしている。そのことを考えたとき、熱意を貨幣に模すモデルがたしかに現時点ではいちばん効率的には思えるけれど、よーく考えてみるとわからない。というのは、熱意を配分する対象間に階層性を措定するか否か(マクロ問題の中にミクロ問題が位置するという入れ子構造を維持したまま投票対象とするのかそれともフラットにして投票対象とするのか)どちらがよりスマートなのかがわからないから。貨幣、というモデルはフラット志向ではあるけれど、フラット構造を措定する場合、貨幣を向ける対象をどのようにして確定しうるのだろう(各対象間をどのようにして弁別しうるのだろう)。うーん。またの機会に。

 P.S.3 ここまで書いてきて思ったが、「選挙制度をどうするか」という問題と、「政策を実行する主体をどうするか」という問題は別個に考えなければならないだろう。上に引用した東浩紀の議論の場合には、政党の解体それ自体が志向されているだろう。国民は、各種の問題がそれぞれどれだけの重みを持っているか(1のレイヤー)、そしてその問題に対する政策がどのようなものであるべきか(2のレイヤー)を投票貨幣で示し、政府の役割は投票貨幣に基づく「取り組むべき問題」という優先順位の決定と各種の政策の実行というわけだ(だから政党は不必要になる)。これはラディカルな考えだ。しかし、別の形として、選挙制度で投票貨幣的なものを用いたとしてもなおかつ政党制というモデルを維持することも原理的には可能だろう。それはたとえば、投票貨幣という考え方をいったん停止し、有権者にはレイヤー1と2についての意思決定をたずねる質問紙に回答してもらい、回答してもらった膨大な数の質問項目の相関から因子を探る因子分析のようなモデルにおいて、あるいはクラスター分析のようなモデルにおいて可能だろう。つまり統計学的な選挙モデルということだが、具体的なモデルはさておき、この選挙制度改革は、有権者のレイヤー1とレイヤー2に対する意思決定を十全に余すところなく吸い上げることを目的としているわけだ。つまり、この場合には、「えらぼーと」的なものを公的な選挙システムとして制度化し、個々の社会問題の重み付けと各政策の是非について意見をもった個々人の頭の中から、それら意見に基づけばどの政党を選択することが妥当であるかという判断を外部化しようという話になる。たとえていうならば、自分の日々の行動や性格を自省して「あたしにはこの職業が向いていると思う!」という自己判断が従来型の選挙だとすれば、新しい選挙は適性試験のようなものだというわけだが、たとえそこまでいかなくとも、えらぼーと的なシステムはもっともっと精緻化されるべきだと強く信じるところなのだ。

「理論・法則定立への欲望」と「個別具体的瞬間の言語化への欲望」が引き裂かれたとき、言葉大好きな彼が誕生する

 禁じ手だけれども類型論を使わせてもらえば、この世の中で言葉が好きな人間には2種類のタイプがいる。1.曖昧模糊とした現象の細部から本質とノイズを区別し本質に基づいて情報を縮約することによって現象をよりよく把握できるモデルを組み立てようとする「理論・法則定立への欲望」を持った人間。2.曖昧模糊とした現象の曖昧模糊さをなんとか言葉に掬い上げようとする「個別具体的瞬間の言語化への欲望」を持った人間。どういうことか。具体的には、ちょうど適当だなと思って引っ張った次の二つの断片を読んで欲しい。

「理論・法則定立への欲望」タイプ

「最近の議論で私が関心があるのは、全世界をとらえる枠組みじゃなくて、「語りうること」とはどこまでで、どうすれば「語りうること」を語り「語りえないこと」を語らないか、ということです。全世界を「科学」でとらえられないということは最初から自明なことなわけで。目の前に自閉症の子どもがいて、その子についてできることが100あったとして、そのうち20しか言語化できないなら、その20をきっちり20だけ言語化することに、まずは関心があります。なぜならその20を記録すれば、次にその20が必要な人にそのまま伝わるから。残りの80は無視できるわけじゃないけど、それは言語化できないのだから、「現場にいるひとがそのときどきで頑張れ」と現時点では言うしかない。それを無視するんじゃなくて「言語化することをしない」というだけのこと。そこを言語化すると現時点では嘘の垂れ流しになる。」(from: http://togetter.com/li/13811 )

「個別具体的瞬間の言語化への欲望」タイプ

「「妥協しない」とは、その意味を単なる一般的法則によって説明することを拒否するということである。苦悩には、「罪に対する罰」という説明が、当時としては最も合理的・科学的説明であった。しかしヨブは、そのような一般論では満足しない。あくまでも彼自身の個別性のままで、その実存の(苦悩の)意味を問い続けるのである。これはいかなる科学的・合理的説明も与えることができない。」(from: http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/51982694.html )

 世の中の言葉が好きな人間には主に上記した二つのタイプがいるだろう。「理論・法則定立への欲望」を強く持つ人間のロールモデルは科学者、「個別具体的瞬間の言語化への欲望」を熱烈に孕む人間のロールモデルは小説家だ。もちろん、これら2種類の志向性とでも呼ぶべきものをAタイプ、Bタイプといった類型論で語るのは正しくないだろう。正しくは、特性のようなもの(誰しもが両方の要素を備えているがそれぞれ要素が発露する強度はどれだけかというパラメターは各人で異なる)ととらえるべきかもしれない。ともあれ、誰かを把握するとき、わたしは、まずこの視点で結構みてしまうな。そして「理論・法則定立への欲望」と「個別具体的瞬間の言語化への欲望」の捻れにその人をみる。

生活世界に市場を導入するか悩んでいる彼に何が言えるか

 父親が病気で苦しんでいる、一人では生活できない、引き取って面倒を見るのはあまりに大変だから老人ホームに入居してもらおう。彼女が精神的な苦痛を抱えて沈んでいる、あまりに辛そうだ、ひとつひとつ話を粘り強く聴き取っていても埒が明かないので精神科へ連れて行こう。これらの事態を「生活世界の市場化」あるいは「生活世界への市場の論理の浸入」と批判することはたやすい。でもこのような現場に直面したらどう振る舞うかをさまざまな人に訊いていくと、多くの人は「専門家に任せることも大事だ」という。みんなそれなりに含みのある回答をしてくれて勇気づけられる。個人的に、この種の問いは極度に答えがない種類の問いなのではないかと考えている。ケースバイケース、文脈に応じて最適解は異なるよね、という話ではない。「ケースバイケース」というとき、そこには、個別具体的な文脈を正しく踏まえれば外部の観察者でも当事者に対して合理的な解答を与えうるという含意が含まれているように思える。しかし、「極度に」という形容詞でわたしがいいたいのは、たとえば老人ホームの問題ならば息子のもう我慢出来ないという精神状態やら父(´・ω・)カワイソスと想うその気持ち、父親の息子に迷惑をかけられないという意地やこの際淋しいし構って欲しいという思わず零してしまう精神状態、いろんな感情やら思考やら相手の出方や行動を伺った結果としての判断修正やらがギリギリの綱引きをしてつかの間の均衡をしている結果として危うく一瞬だけ成り立っている状態から当事者にとって合理的だと感じられるやり方で導かれる対処方略が唯一解だ、というか、着地しているその現場で当事者が苦悩の末とりあえずこうしようと判断した解答こそがすべてなのではないかとどうしても思ってしまうのだ。外部の人間は、「どうしたらいいと思う?」と当事者に尋ねられるだろう。彼はたとえば「専門家に任せることも大事だよ!」と答えるだろう。彼のその答えは、苦悩している当事者の綱引きする精神状態への資源(彼の判断材料として消化される言説)として一定の意義を持つものの、論理的には、外部からは、絶対に、ある問題状況に対して、「最適解」に近似すらできないと思うのだが、些末な問題かな。なんか妙なことがひっかかってしまう最近。