生活世界に市場を導入するか悩んでいる彼に何が言えるか

 父親が病気で苦しんでいる、一人では生活できない、引き取って面倒を見るのはあまりに大変だから老人ホームに入居してもらおう。彼女が精神的な苦痛を抱えて沈んでいる、あまりに辛そうだ、ひとつひとつ話を粘り強く聴き取っていても埒が明かないので精神科へ連れて行こう。これらの事態を「生活世界の市場化」あるいは「生活世界への市場の論理の浸入」と批判することはたやすい。でもこのような現場に直面したらどう振る舞うかをさまざまな人に訊いていくと、多くの人は「専門家に任せることも大事だ」という。みんなそれなりに含みのある回答をしてくれて勇気づけられる。個人的に、この種の問いは極度に答えがない種類の問いなのではないかと考えている。ケースバイケース、文脈に応じて最適解は異なるよね、という話ではない。「ケースバイケース」というとき、そこには、個別具体的な文脈を正しく踏まえれば外部の観察者でも当事者に対して合理的な解答を与えうるという含意が含まれているように思える。しかし、「極度に」という形容詞でわたしがいいたいのは、たとえば老人ホームの問題ならば息子のもう我慢出来ないという精神状態やら父(´・ω・)カワイソスと想うその気持ち、父親の息子に迷惑をかけられないという意地やこの際淋しいし構って欲しいという思わず零してしまう精神状態、いろんな感情やら思考やら相手の出方や行動を伺った結果としての判断修正やらがギリギリの綱引きをしてつかの間の均衡をしている結果として危うく一瞬だけ成り立っている状態から当事者にとって合理的だと感じられるやり方で導かれる対処方略が唯一解だ、というか、着地しているその現場で当事者が苦悩の末とりあえずこうしようと判断した解答こそがすべてなのではないかとどうしても思ってしまうのだ。外部の人間は、「どうしたらいいと思う?」と当事者に尋ねられるだろう。彼はたとえば「専門家に任せることも大事だよ!」と答えるだろう。彼のその答えは、苦悩している当事者の綱引きする精神状態への資源(彼の判断材料として消化される言説)として一定の意義を持つものの、論理的には、外部からは、絶対に、ある問題状況に対して、「最適解」に近似すらできないと思うのだが、些末な問題かな。なんか妙なことがひっかかってしまう最近。