「理論・法則定立への欲望」と「個別具体的瞬間の言語化への欲望」が引き裂かれたとき、言葉大好きな彼が誕生する

 禁じ手だけれども類型論を使わせてもらえば、この世の中で言葉が好きな人間には2種類のタイプがいる。1.曖昧模糊とした現象の細部から本質とノイズを区別し本質に基づいて情報を縮約することによって現象をよりよく把握できるモデルを組み立てようとする「理論・法則定立への欲望」を持った人間。2.曖昧模糊とした現象の曖昧模糊さをなんとか言葉に掬い上げようとする「個別具体的瞬間の言語化への欲望」を持った人間。どういうことか。具体的には、ちょうど適当だなと思って引っ張った次の二つの断片を読んで欲しい。

「理論・法則定立への欲望」タイプ

「最近の議論で私が関心があるのは、全世界をとらえる枠組みじゃなくて、「語りうること」とはどこまでで、どうすれば「語りうること」を語り「語りえないこと」を語らないか、ということです。全世界を「科学」でとらえられないということは最初から自明なことなわけで。目の前に自閉症の子どもがいて、その子についてできることが100あったとして、そのうち20しか言語化できないなら、その20をきっちり20だけ言語化することに、まずは関心があります。なぜならその20を記録すれば、次にその20が必要な人にそのまま伝わるから。残りの80は無視できるわけじゃないけど、それは言語化できないのだから、「現場にいるひとがそのときどきで頑張れ」と現時点では言うしかない。それを無視するんじゃなくて「言語化することをしない」というだけのこと。そこを言語化すると現時点では嘘の垂れ流しになる。」(from: http://togetter.com/li/13811 )

「個別具体的瞬間の言語化への欲望」タイプ

「「妥協しない」とは、その意味を単なる一般的法則によって説明することを拒否するということである。苦悩には、「罪に対する罰」という説明が、当時としては最も合理的・科学的説明であった。しかしヨブは、そのような一般論では満足しない。あくまでも彼自身の個別性のままで、その実存の(苦悩の)意味を問い続けるのである。これはいかなる科学的・合理的説明も与えることができない。」(from: http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/51982694.html )

 世の中の言葉が好きな人間には主に上記した二つのタイプがいるだろう。「理論・法則定立への欲望」を強く持つ人間のロールモデルは科学者、「個別具体的瞬間の言語化への欲望」を熱烈に孕む人間のロールモデルは小説家だ。もちろん、これら2種類の志向性とでも呼ぶべきものをAタイプ、Bタイプといった類型論で語るのは正しくないだろう。正しくは、特性のようなもの(誰しもが両方の要素を備えているがそれぞれ要素が発露する強度はどれだけかというパラメターは各人で異なる)ととらえるべきかもしれない。ともあれ、誰かを把握するとき、わたしは、まずこの視点で結構みてしまうな。そして「理論・法則定立への欲望」と「個別具体的瞬間の言語化への欲望」の捻れにその人をみる。