政治について誰かと語り合うときは2つのレイヤーを分けた方がいい

 自分は周知の通り民主党が大嫌いで小沢は脳梗塞でも起こしてとっとと消えてくれくらいのことは平気で思っているけれど、たとえば教育の問題に重きをおく教育社会学者が民主党自民党よりも支持することには理解を示せる。そりゃそうだ。たしかに教育という問題領域に絞った限りにおいては、民主党の方が「まだマシ」という様相を呈していると自分も思う。問題なのは、わたしにとって教育の問題はそれほど大きなウエイトを占めていないけれど、教育社会学者の彼(彼女)にとっては大きなウエイトを占めているということ。この場合、教育社会学者の彼(女)が「教育政策において自民党よりも民主党の方がマシだ」ということをわたしに納得させることができたとしても、なおわたしは民主党を支持しないだろう。その場合、彼がわたしに熱っぽく民主党支持を語ることにどんな意味があるというのだろう。

 政治についての意思決定は二つのレイヤーを孕んでいる。

1.数多ある諸問題(経済政策・外交・軍事・教育・家族・保健衛生etc)の中であるひとつの問題にどれだけのウエイトを置くかという熱意の配分レイヤー
2.その問題についてどういう価値観・政策を支持するかという実質的議論のレイヤー

 1がすれ違っている当事者たちが2について語り合うことが無意味だとはいわない。わたしと教育社会学者が教育について語り合い相互に価値観を戦わせ理解を深めることは有意義だろう。ただしそこに政党支持の問題を絡ませるな、と思う。彼がいくら熱っぽく教育問題を2のレベルで語ってわたしが彼の意見に賛同したとしても、1のレベルにおけるウエイトの配分比率が大きく食い違っていれば、政党支持というレベルでは話がかみ合わない。「どうしてこんなにひどい政策を行う**を支持するのか!」と怒られても、それは1のレイヤーにおける食い違いがそもそもあるからなのだ、ということになる。教育社会学者の彼が取るべき戦略は間違っている。彼は「いかに教育が大事な問題か」を語りわたしのなかでの教育問題のウェイトを引き上げることを狙って議論を進めるべきなのだ。

 それにしても、1(熱意の配分レイヤー)は2(実質的議論のレイヤー)にくらべて軽視されすぎている。これは大問題だと自分は思う。たとえば、ある社会的問題についての政策がいくつか出てきてどれがいいと思うかを選択しクリックしていくだけで自分と相性のあう政党を選び出してくれる「えらぼーと」(http://mainichi.jp/votematch/)みたいなシステムは、選挙時に大きな役割を果たしてくれる。毎日ニュースで政治的動向を逐一追いかけているわけではない人でも、選挙の直前にえらぼーとを行えば、自分がどの政党に投票すべきなのかを簡単に瞬時に知ることができるのだから。しかし問題は、このえらぼーとが、2(実質的議論のレイヤー)しか扱っていないことである。教育問題よりも経済問題の方が重要だ、という1のレイヤーでの価値判断をえらぼーとは掬い上げてくれない。えらぼーとでは、各問題にどれだけのウエイトを与えるかの重み付け、つまり1(熱意の配分レイヤー)が隠れてしまっている。正確にいえば、熱意の配分をえらぼーとの作り手が勝手に決めてしまっているのだ。これではいくらでも誘導可能だ。あるいはより慎重にいえば、「マニフェストに明記された主要な論点を等ウェイトで扱うことを強制し熱意の配分という問題が顕在化することをあらかじめ排除している」といったほうがいいかもしれないが。

 たしかに各問題について個別の実質的議論を深めることは政治の根幹に関わるだろう。しかし、どの問題をどれだけ重視するか、という「より」の判断こそが、政党を選ぶという形でしか政治的意志決定を表明できない選挙時には大きな問題となるだろう。参院選が近づいている。熱意の配分レイヤーに正当な光が当てられることを願う。

 P.S. 思い返してみれば東浩紀の投票貨幣の話(http://d.hatena.ne.jp/kosonetu/20060328/1143504511)って、a.どの政党に投票するかを迫る選挙では2の実質的議論レイヤーよりも1の熱意の配分レイヤーの方が効いてくる、b.にもかかわらうず熱意の配分レイヤーを現行の選挙制度はうまく掬えない(民主党自民党かという二分法でしか1の熱意の配分レイヤーについての意思決定を表明することができない)、c.したがって熱意の配分レイヤーで個々人が持っている意志をより的確に選挙時に掬い上げるために貨幣をモデルとして導入しよう、ということだったんだろうな。

東「政治…というか僕は国民国家の政治システムというか、つまり議会制民主主義みたいなものがちょっと嫌いなんですよ。つまりあれって、なんかこう、政策パッケージっていうか、昔いろんな党があった時はいいけど、まず最近そうだけど自民党民主党もあんまり政策変わらないわけでしょ?つまり、いろんな政策のオプションはあるのに全部パッケージ化して、こいつを選ぶかあいつを選ぶか、二者択一にするわけですよね?あんなの全く原始的なシステムで、あーゆーの僕ちょっと嫌いなんですけどね。だから、みんなが参加できる形で…」(中略)

東「まあ政策ごとに選挙権を分割するべきだと思います。僕は」(中略)

東「いや、でも一人一票である必要もないと思いますよ、僕は。だから、最初の生まれた段階で政策ごとにわりふった選挙権パッケージのようなものを与えて、あとはその選挙権どうしで売り買いするというような」

不明「おー。市場があるんですか」

東「だからそれは、いわゆる経済的な貨幣をいれないべきなんですけど、つまり政治的な貨幣(関与かも)を」

不明「権利は平等ってことです?」

東「つまりあの、僕は、コンテンツ産業系の選挙権は、なんか北朝鮮系関係選挙権の0.3みたいな、とかそういうような市場を作るってことですね。」(中略)

東「そうそう。結局ものを売り買いする人は自分が儲かるかしか考えてないわけじゃん。例えば、原発問題だけに関心がある人がいるとするでしょ、別にイルカ問題でもいいんだけど。でさ、原発問題にだけ関心がある人っていうのは、原発にしか興味ないわけですよ。社会全体見渡す必要ないわけ。でも、原発には妙に興味があるから、原発関係に票集めようと一生懸命するわけだよね。で、自分の他の政策関係にもっていた票の全部を売り払って、原発関係のことを集めるわけじゃん。それを彼は大変なる局所的ななんていうか、利害で動いてるんだけど、でもそういう人がいっぱいいれば、なんかそれなりに原発関係に関して言えば政策よくなったりすると思うのね。」

 P.S.2 教育問題と経済問題どちらを重視するかという相対的にマクロな熱意の配分問題だけではなく、たとえば同じ経済問題でも金融政策の問題とか消費税の問題とかいろいろあって、ミクロな問題領域間での熱意の配分問題はどんどん細分化されていく、というか入れ子構造をしている。そのことを考えたとき、熱意を貨幣に模すモデルがたしかに現時点ではいちばん効率的には思えるけれど、よーく考えてみるとわからない。というのは、熱意を配分する対象間に階層性を措定するか否か(マクロ問題の中にミクロ問題が位置するという入れ子構造を維持したまま投票対象とするのかそれともフラットにして投票対象とするのか)どちらがよりスマートなのかがわからないから。貨幣、というモデルはフラット志向ではあるけれど、フラット構造を措定する場合、貨幣を向ける対象をどのようにして確定しうるのだろう(各対象間をどのようにして弁別しうるのだろう)。うーん。またの機会に。

 P.S.3 ここまで書いてきて思ったが、「選挙制度をどうするか」という問題と、「政策を実行する主体をどうするか」という問題は別個に考えなければならないだろう。上に引用した東浩紀の議論の場合には、政党の解体それ自体が志向されているだろう。国民は、各種の問題がそれぞれどれだけの重みを持っているか(1のレイヤー)、そしてその問題に対する政策がどのようなものであるべきか(2のレイヤー)を投票貨幣で示し、政府の役割は投票貨幣に基づく「取り組むべき問題」という優先順位の決定と各種の政策の実行というわけだ(だから政党は不必要になる)。これはラディカルな考えだ。しかし、別の形として、選挙制度で投票貨幣的なものを用いたとしてもなおかつ政党制というモデルを維持することも原理的には可能だろう。それはたとえば、投票貨幣という考え方をいったん停止し、有権者にはレイヤー1と2についての意思決定をたずねる質問紙に回答してもらい、回答してもらった膨大な数の質問項目の相関から因子を探る因子分析のようなモデルにおいて、あるいはクラスター分析のようなモデルにおいて可能だろう。つまり統計学的な選挙モデルということだが、具体的なモデルはさておき、この選挙制度改革は、有権者のレイヤー1とレイヤー2に対する意思決定を十全に余すところなく吸い上げることを目的としているわけだ。つまり、この場合には、「えらぼーと」的なものを公的な選挙システムとして制度化し、個々の社会問題の重み付けと各政策の是非について意見をもった個々人の頭の中から、それら意見に基づけばどの政党を選択することが妥当であるかという判断を外部化しようという話になる。たとえていうならば、自分の日々の行動や性格を自省して「あたしにはこの職業が向いていると思う!」という自己判断が従来型の選挙だとすれば、新しい選挙は適性試験のようなものだというわけだが、たとえそこまでいかなくとも、えらぼーと的なシステムはもっともっと精緻化されるべきだと強く信じるところなのだ。