ジャック・デリダは煙草をどう語ったか

 煙草とは何か。一見すると、それは純粋で贅沢な消費の対象である。見かけは、この消費は器官のいかなる自然な欲求に答えるものでもない。それは純粋で贅沢な、無償で、それゆえ高価な消費であり、見返りのない出費なのだが、それがある快楽を生みだす。この快楽を、声と口唇という自己−触発にもっとも近い摂取の部位を経由して、人がみずからに与えるのである。その快楽からはなにも残らず、その外的な記号そのものも跡形もなく、煙となって消えてしまう。もしも贈与があるならば――とりわけ人がなにかを、なんらかの情動なり純粋な快楽なりをみずからに与えるならば、煙草を吸うことに与えられる許可に対して、贈与は本質的な、少なくとも象徴的で寓意的な関係を持ちうるのである。以上が少なくとも見かけである。それはさらに分析されなければならない。(『時間を与える』より)

 相変わらずのデリダ節だけれども(苦笑)、この種の感覚は、喫煙者の多くが持ち合わせているのではないかと思う。そしてこの感覚は、煙草のけむり(smoke)を通して先鋭化される。ゆえに、smokeは多くの物語的想像力を刺激し続けてきた。たとえば、ハーヴェイ・カイテルが名演技を魅せた素晴らしき映画、『Smoke』とか。まぁ、ただそれだけのお話、与太話ですた。