親密な他者に分析的な目を向けるか否かについて
結婚しようと思っている相手が将来病気にかかるか否かは大きな問題だろう。いくらサラブレッドの彼氏でもぶっ倒れたらいろんな意味であまりに辛い。結婚相手が将来かかるであろう病気のリスクを知りたいとする。なにも相手の血液から抜き取ったDNAの解析結果を簡単に得ることができるDNA解析がデイリーユースに普及する社会が到来するのを待つ必要はない。相手の血縁者の既病歴からそれなりの程度の推測ができる。優性遺伝の病気なのか、劣性遺伝の病気なのか、遺伝率はどれくらいだと現時点でわかっているのか、インターネットを駆使すれば瞬時に情報が集まるだろう。健康診断や病院の問診表には血縁者の既病歴を尋ねるチェックボックス項目がいつもふてぶてしく鎮座している。それにはそれなりにわけがあって、血縁者の既病歴というデータから相手の病気リスクについて(医学的・生物学的・疫学的に)一定程度の推測が可能なのだ。とはいえ、わたしたちは相手の年収見込みを念入りに精査することはあれども、あまり既病歴について分析的に精査することは少ない。また、パーソナリティ特性のようなさまざまな尺度と相関データを駆使すれば、(確率論的な意味で)一定程度に予測可能な事象も結構あるだろう(心の脆弱性、あるいはとある心理的傾向と相関する結婚生活上の出来事など)。研究者の女の子にこの話を振ると「そこまでやりたくない。むしろあたしと関わることによって相手を変えることができる可塑性を信じている」みたいな返事が返ってきた。親密な他者に実証的な知見を次々と当てはめて自分たちの将来を確率論的に予想するようなやり口を彼女はきっぱりと拒絶した。明示的に、彼女は、知見を適用したくない(すべきでない)領域があるから、その領域については私はそうしないといった。潔い、と思った。自分もたしかにそうなのだ。分析的な目を向けようとはあまり思わない。でもそれはなぜだろう、と。また、分析的な目を思わず向けてしまう部分とそうではない部分が分岐するとしたら、それはいかなる機序にもとづいてなのだろう、と。