後悔していないと、あるいは憤っていないと、仲直りもできない

 現在は横浜市役所に勤めているという、かつての仲間の女の子がやってきた。ひさびさに会えて嬉しかったし元気そうで何よりだった。そして、いつの間にか疎遠になっていたむかしとても仲の良かった男の友人が自分に対して数年来の嫌悪感を抱いてきたということを彼女から伝え聞く。5年ほど前彼と二人で飲んでいたとき、彼に対して自分が差別的発言をしたからだというのだけれども、自分の自覚と彼の言い分とはだいぶ隔たりがある。(彼女を通して聞いた話ではあるが)彼がいうには、自分が彼に対して「おまえは同和だ」みたいな話をしたとのことらしいが、いくら酔っているとはいえそんな発言を行った記憶はまったくないし、発言を行う必要がどこにあるのかわからないし、そもそも正直にいえば「同和」という単語を発すればどのような特質をアナロジーとして相手に投射することになるのかすら把握していないので、ただただきょとんとしてしまうばかり。あまりに遠く混濁した記憶をたぐれば、唯一、かつて彼と何らかの差別意識の問題について語り合ったとき、具体例のひとつとして「同和」という単語を飲み屋で大きな声で発したことがあり、そのとき彼が関西出身という同和問題をアクチュアルに感じる背景文脈を生きてきたこともあって、「そんな単語を人前で大声で出すな!」とたしなめてきた、という断片的な記憶ならばおぼろにたぐり寄せることができる。そもそも自分は「同和」という単語を人前で発することそのものには今現在でも抵抗を感じないのだけれど、彼は、「同和」という単語を人前で出されたことで、彼固有の来歴に由来するある規範的なスイッチが入り不快になり、そのときの自分の何らかの発言をネガティブ方向に屈曲させ膨らまして記憶の端緒に定着させ、その飲み以後のコミュニケーション断絶期間に記憶の内部で件の「同和」発言がぐるぐると渦を巻き自分という存在の表象が嫌悪の強固な鎧で巻き締められ、かつて仲の良かった二人はもう口を聞くこともない、自分にとってはそういう解釈だ、と自分の言い分を彼女に伝えていたら、その話を聞いていた別の女の子が「じゃあ仲直りすれば良いじゃないですか」という。

 仲直り、って何だろう。自分は彼に対して怒りも嫌悪も抱いていない。一方、彼は自分に積年の嫌悪感を持ってきたという。なぜなら、もはや事実の検証が不可能な、細部が生き生きと満ちた彼の記憶のなかに提灯をともす5年以上前の飲み屋のあるテーブルで、自分が彼を「同和だ」と罵ったから。わたしは後悔していない。なぜなら、彼が同和だ、などと発言した記憶はまったくないのだから。わたしは憤っていない。なぜなら、彼を嫌う理由なんてこれっぽっちもないのだから。後悔していれば、謝罪できる。憤っていれば、赦すことができる。でも、わたしは、彼に、なにも、できない。彼も、わたしを嫌っているのだから、何もしてこない。いがみ合ったことも、ののしりあったこともなく、ただただ記憶の中でわたしたちは喧嘩をしていた、そしてわたしの記憶の中ではそれは喧嘩ですらなかったのだとすれば、そこに仲直りするための感情的余地は残されてない。なにを謝ればよいのか、なにを赦せばよいのか、まず彼に何を語りかけようというのだろう。まったく平板でニュートラルな感情状態で彼に「誤解だよ」と伝えたところで、彼は「なんだその態度は!」と応じるだろう。その際、彼の怒りを鎮めようとするだけのエネルギーを持ち合わせていない、なぜならわたしはまったくもって感情的にニュートラル、きょとん、なのだから。彼の怒りや嫌悪といったネガティブ感情の膨大なエネルギーと、わたしのニュートラルでちっぽけな感情エネルギーは、あまりに非対称なのだ。非対称すぎて、とてもではないけれど噛み合わない。彼が志向性をわたしにぶつけてきたとき、わたしは支えられない。何をできるというのだろう。いつの間にか迷い込んだ疎遠さが固着化する森に、空からイワシが降ってくるように、いつかまったく外部から何らかの契機が訪れて、仲直り、できるよう祈る。