人々を「説明」する行為ついて 観察者のまなざしvs当事者のまなざし 心的過程のモデリング化について

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福島真人(1992) 「説明の様式について あるいは民俗モデルの解体学」「東洋文化研究所紀要」116 東京大学東洋文化研究所 295-360.

久々に読んだらやはり面白かったし自分の背骨となっている論文のひとつなのでいくつかベタメモ。ブルデューアフォーダンスを組み合わせて論じたりしていたことは忘れていたよ。

  • 観察者・研究者(人類学者)が描き出す当該社会に関する図式、あるいはモデルが、いったいどういう認識論上の位置を持つのか
  • 当該の社会を生きる人々が持つ民俗モデル(emic)と研究者が理論的に見いだす分析モデル(etic)の関係をどう扱うかは社会科学の長年のキモとなる部分
  • たとえばレヴィ=ストロースの場合

レヴィ=ストロースの場合、背後には、無意識の構造が存在し、それが人の行動を支配する。規範と言われるモノは、それ自体は単に言明された形式であり、構造そのものではない。言明される規範はモデル(場合によっては貧しい)であって、行為を統制するのはあくまで構造なのである。それゆえある意味では、観察者も当事者も、この無意識の構造に対しては同等のアクセスを持つことになる。だからもし優秀な当事者が存在すれば、彼はその現地の「人類学者」として、自らの無意識的構造にアプローチできることになる。その意味で、民俗モデルも分析モデルも等価性を持つことになるのである。(p.303)

  • まとめると3パターンある

1.言明された規則が行為を縛るという社会的拘束論(当該社会を生きる人々が言明する規範やモデルを当該社会の人たちは生きているとする)
2.無意識の構造によるという深層心理的説明(構造主義
3.目的合理的・合理的経済人・合理的政治人とでも呼べるモデル(当該社会を生きる人々が言明する規範がいかなるものであれ彼らは自分の利得を最大化するような形で生きているとする)

規範その他の問題で興味深いのは、それが言明されるという事態と、その執行との間にある差であり、この言語化可能性ということが、問題の焦点になるのである(p.311)

  • 解釈学の場合

テクストとそれを解釈しようとする研究者との絶えざる「対話」というモデル

こうした対話的モデルを厳密に推し進めれば、民俗モデルと分析モデルという硬直した二分法は妥当性をほとんど持たなくなる。むしろそこで記述されるのは、彼らの言明とそれに対する人類学者の言明との長期的相互作用の記述ということになるからである。(p.320)

  • 解釈学の「対話」モデルの問題点

しかし問題は、こうした対話的イメージが、実際の方法として成り立つための範囲とその限界である。我々が長期的対話の過程において、我々の問いやそれに対する彼らの言明を一つ一つ丹念に追っていくと仮定してみよう。対話が長期的に進むにつれ、対話者双方の知識は増進し、その内容もより細密になっていく。このより具体的な説明のレベルにおいて、人類学者は民俗モデルが実は説明の体系としては不十分だという事実に気がつくのであるが、と同時にある時点で、人類学者はこうした当事者の説明体系自体にある種の限界があるという事実に直面することになる。つまりある種の慣習的行為については、それについての言明が不在、あるいはミニマルになり、彼ら自身もまた、単に先祖の言いつけに従っているのだ、という事態以上に先に進むことが出来なくなると言う事態の発生である。その極端な例が儀礼である。……こうした局面は、何も儀礼という特殊な行為に限定されている訳ではない。我々の社会的行為の諸側面で、儀礼に類似した形式化が様々な形で行われていることは、ゴフマンの一連の作品の中に鮮やかに示されている。(p.321)

我々の言語的能力によっては容易にアクセスできない行為の分野が存在する。それは必ずしも言語によっていちいち解説、あるいは言明化され、それゆえ「意味ある」形に翻案されるとは限らない一連の行為である。こうした行為とその重要性に対する判断の度合いが、実は解釈学的なアプローチを肯定するか、それとももっと別の枠組みを必要とするかの分かれ目なのである。(p.327)

ある所為の理由を問うことは、行為の流れの中に概念的に切り込むことになるが、行為の流れは、こうしたひと続きの「意図」を伴わないと同様、数珠つなぎになった個個別別の「理由」をも伴わない(ギデンズ、p.327)

  • 観察者の介入が、連続的である社会的行為にある切断面を設け、それが「意味」を過剰に生産させてしまうということ
  • ブルデューはこうした慣習的な(前意識的な)行為一般について執拗に理論化を進めている

ハビトゥスとは身体ー認知構造に刻印されたある種の構造であり、それは客観的な構造によって形成されると同時に、さまざまな新しい行為を生む母体ともなる構造である。当然これは前意識的であるが、構造化されているという側面において、ある種のオートマティズム、つまりそれが生み出す行動にある種のパターンを形成することになる。だがブルデューの理論的ターゲットは、常に相反する方向に二分化する論点、つまり客観主義と主観主義、分析者が作り出す、文化や規則や無意識の構造といったものに行為を還元する傾向と、逆に行為者の主観的言明に分析の中心を売り渡すこと、その両方であり、それらに対し同時に攻撃を加えている。(p.328)

行為者は、自分の実践を現実に規整しているものを見つけ出し、それを言説のレベルにもたらすには、観察者より有利な立場にいるわけではない。観察者の方は彼に比べ、行為を外から対象として把握でき、そして何よりもハビトゥスの継起的な実現を全体化できるという点で有利な立場にいる。……こうして行為者はみずからの行為の真の原因(ハビトゥス)によるのとは異なる理由を、自分の行為に付け加えることになる。(p.329)

[ブルデューの「ハビトゥス」や「実践感覚」という研究プログラムは…]行為の動因を説明しようとする際に二極化した形であらわれる図式、すなわち観察される行為の規則性からそれを統制する無意識の規則体系のようなものを想像する立場(人はそうした無意識的な規則というレールの上を走る鉄道のようなものであるといったイメージ)と、逆に人は環境に対する十分な情報を与えられ、それを最大限に利用して、意識的に合理的戦略を行うという、合理的経済人モデルやそれを政治に適用した立場との間の中間点を探すための戦略である。それゆえ、そこでは、実践的行為者の行為決定は、瞬時に行われ、「規則ー原理」や「計算ー推論」の両者が否定されて、ある種の自動的色彩が強調されるようになる。だが一方、象徴資本という用語を作り出し、狭義の経済的論理を拡大して象徴的分野にも適用しようとする彼は、この二つの軸、すなわち、よりオートマチックな反応モデルと、拡大された計算モデルの間を揺れ動くことになる(p.334)。

ブルデューの認知論的な主張は、認知科学における古典的な計算主義と、異端の一つであるギブソン系の生態学的な主張との間を行き来しているように見える。(p.337)

ギブソンは基本的に知覚作用について研究しており、……この環境世界がもつ構造が知覚者の構造を決定しており、それゆえ情報は「直接的」に「抽出」され、「計算」主義者のような情報処理の仮説を必要としないという図式をさきほど引用した。ブルデューの、推論や計算をしない、瞬時の判断、あるいは本能の自動的確実さ、といった表現と突き合わせてみると、その類似性がわかる。推論/計算がないのに、なぜこれらの判断はそれほど能率的に行われるのであろうか。(p.338)

知覚作用の前提となる環境の構成と、知覚作用そのものの緊密な関係が存在する以上、その作用自体は直接的だとギブソンはいう。より複雑な身体-認知作用の総体であるハビトゥスにとっては、こうした環境の構造に当たるのは、歴史的、文化的構造であり、それに即応する形で身体ー認知構造であるハビトゥスが構成されることになる。それゆえ社会ー環境的なニッチとハビトゥスの持つ傾向性が一致するかぎり、そこから生産される実践は、情報抽出論に近いような「直接性」を持つことになる。ちょうどギブソンが否定したように、そこには計算の概念は必要とならず、実践は限りなくオートマチックになる。(p.339)

しかし実践を構成する社会環境は、動物における生態学的な環境と同一ではない。……知覚に関する限り、いくつかの基本的条件(たとえば空気等の触媒、水や固体、面といったもの)の性質は一定であり、人間によるこれらの改変には限界があるとする。しかし社会的諸条件は、知覚に対する環境過程の安定した性質を持っていない。……ここにギブソン的なアプローチとのアナロジーの限界がある。環境1→ハビトゥス→環境2と図式化すれば、環境1と環境2の間の偏差は場合によって異なり、1≒2である場合もあれば、1と2が全く異なるような急激な社会変化が起こることもあろう。とりわけこの後者の場合、実践のオートマティズムの効率性は保証できなくなる。こういった状況においては、多分慣習的行為論自体の限界、つまりその行為自体が慣習的と描写されるだけで済まなくなり、より複雑な、計算主義的要素を導入する必要性も出てくるのだろうと思われる(p.340)。

ブルデューの認知論は、このようにして計算主義とギブソニアンの間を行き来するように見えるが、彼の言う暗黙裏の計算というのは、実は合理的選択モデルを拡大し、それを無意識のレベルに押し込んだもので、心的機構に関する認知的仮説として十分に練り上げられたものとはいえない。……その結果、ハビトゥスそのものの認知的構造は最終的には曖昧になり、様々な比喩的な表現のみがその描写のために累積されるという結果になるのである(p.340)

  • さて、問題は認知だ。では研究者の観察における認知(心的機構)の想定という問題をもう少し突っ込んで考えてみよう。(ここは面白い!)

 [当該の社会を生きる人々によって]言明される規則→実際の規則→実際の行動と考える傾向がある古典的な機能主義者たちは、観察に多くを依存する一方、こうした疑似等式を支える心的機構については、ほとんど何も考えていないことになる。そこにあるのは、「規範はいずれにせよ行為を規定する」という極めて散漫な哲学である。
 だが心的機構について仮説を導入するとなると、それを深層の構造にもっていくか、逆に意識的な合理モデルに還元するか、という様々な選択があり得ることになる。だが問題はこれらの分析モデルが、いずれにせよ観察でも、あるいは当事者の言明からも演繹できない、心的構造についてのモデルである以上、これが恣意的だ、とか分析者側の科学主義的な偏見だ、といった類の批判を常に被る危険があるという点である。この点、その中間点を行くブルデュー的なモデルは、上記の二つの曲の中間的な認知ー身体的なレベルに的を絞り、それを歴史的な諸構造の内在化とすることで、認知主義的な仮説をミニマルにするという戦略をとる。このことはしかし当然、ハビトゥス概念が心理学的には曖昧で、それ自体が事実上ブラックボックス的になっているという印象をぬぐい得ないという逆の批判を呼び込む可能性がある。
 ……しかしもし人類学者がその分析の手段として持っている武器が、フィールドワークのデータだけで、そこには人類学者が観察した事実と、当事者の言明しか入っていないとしたら、人類学者がやれる事というのはひたすら記述ー解釈を繰り返すという事になろう。それ以上の事をするには、言語学情報理論ゲーム理論精神分析、あるいは認知科学と言った分野から理論を失敬してきて、それにより仮説的に説明するという事態は避けられないのである。(p.342)

  • おわりに

だが問題は我々はいったい何処まで説明するべきなのであろうか、あるいは何処まで分析モデルを作る事を要請されるのか(あるいは可能なのか)という点である。前述したように、心的過程についてのブルデューの記述は、認知科学のいくつかの流派と微妙に交錯するように見えて、実は真の意味では認知的ではない。この点でいえば、われわれはすでに人類学→フィールドでの観察と参加→民族誌といったルーティン的枠組みを越えて、例えば諸学を精力的に動員した一般「行為」学という形で枠組みを拡大しない限り、問題は解決しそうにないのである。この領域の拡大ぶりは、しかし諸刃の剣であり、こんな拡張に不安を覚える人々は、やはり居心地の良い、解釈学的伝統にしがみつくことになろう。そしてそうする限り、人類学には膨大な民族誌が蓄積され、人類学者は、世界文化の収集者として、あるいは洗練された旅行代理店として、生き延び続けて行くことになるのだろう(p.343)。

まさに今もずっと考え続けている(というか答えの出ない)topicについて。ちゃんちゃん。