自分も数百人を虐殺できるだろうか

 もっと読まれるべき記事。

”加害者”側から見たポル・ポト政権――証言しはじめた末端組織「サハコー」の幹部たち (上)――
http://d.hatena.ne.jp/lelele/20050908/1126145693

 戦争や虐殺のシステムを知らなければ、人間なんてもともと暴力性を秘めた存在なのですから、同じシステムで同じことを繰りかえす可能性があります。システムを知っていれば、発露されそうになった暴力性を、事前に抑止することができるかもしれません。

 戦争の加害性をいったり書いたりすると、すぐに「左翼だ」「自虐だ」というレッテルを貼るお馬鹿さんがいます。しかし、加害性をしっかりと明らかにすることは、そういう党派制なんて何も関係ないのです。この点は、強く訴えたいものです。ただただ、多くの人を不幸に導くアホな出来事を繰りかえさないよう学習するため、できるだけ被害性と等価で加害性を追求し、アホな出来事を相対化する必要がある、ということですね。

 これは極めて大事な指摘だと思う。事態の再発を防ぐには、被害者の証言と同じくらい、いやそれ以上、加害者の証言が重要なのだ。人間はみな暴力性を抱えている。自分も例外ではない。正直に言えば、もし自分がポル・ポト政権下に生きていたならば――そして誰かを殺さなければ自分が殺されると知っていたら――自らの銃で数百人を殺していた可能性を否定しきれない。

 虐殺を行った人間を「許せない」と道徳的に切り捨てるのではなく、なぜ彼らがそのような行為に至ったのか、【加害のシステム】こそを明らかにしなければならない。虐殺者の人間性の問題としてではなく、組織構造の問題として虐殺を考えていかねばならない。チベットの問題だって同様だ。中国人の人間性の問題ではなく、チベット人に対する虐殺を可能にしている中国の【加害のシステム】はいかなるものなのか。その点に焦点を絞って自分はニュースを追いかけている。

”加害者”側から見たポル・ポト政権――証言しはじめた末端組織「サハコー」の幹部たち (下)――
http://d.hatena.ne.jp/lelele/20050909/1126201222

 「ひとり目を殺せれば、あとは人の死が無意味に感じられてくる。だから何人でも殺せるようになる。問題は、社会がそういう雰囲気になってしまったことだ。誰が指示したかということは、いまとなってはあまり問題ではない。なぜならば当時、私たち密偵のなかで、ポル・ポトの名前を知っている者などいなかったのだから」

 3人のサハコー幹部の証言を聞き終えたあと、私にはひとつの疑問が生まれた。それは、「この人たちは、加害者といえるのであろうか」ということである。

 この問いは、ポト時代に支配する側であった人びとを免罪するつもりで発しているのではない。絶えず敵をつくらないと、自分が敵になるという構造。平等化を唱えつつ、小さな差違が生じると処分されてしまう状況。言い換えれば、絶えずスケープゴートをつくり出し、それを排除しておかないと、みずからが排除されてしまうような社会、それがポト時代なのである。そういう時代のなかで、みずから進んで排除される側になろうと思う者など、果たしているであろうか。

 「ひとり目を殺せれば、あとは人の死が無意味に感じられてくる」…きっとそうなのだと思う。自分だって、一人目を撃ち殺せば、おそらくそう感じてしまうのだ。たぶん、数百人を殺すことすらできる。もし自分が今現在チベット人を監視する人民軍の兵士だったならば、きっと誰かを撃ち殺していたのではないか。もし「チベット人を撃たなければ自分が虐待される状況」に置かれていたならば、「それでも自分はチベット人を撃たない」と、何人の人間が胸を張って言えるのだろう?

 糾弾されるべきはシステムだ。そうしなければ事態は改善しない。その点を誤ってはいけない。なお、カンボジアの虐殺については、この映画を是非観てください。難しい話は抜きにして。1984年の作品、『キリングフィールド』。

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【追記】驚いた!この文章を書いたあとにニュースを読んでいたら、このような記事を見つけてしまった…本日付です。安らかにお眠りください。

映画「キリング・フィールド」のモデル、D・プラン氏が死去
http://sankei.jp.msn.com/obituary/080331/obt0803310017000-n1.htm