はてな界隈がなんかアレっぽいな

 道徳的思考モードのスイッチ(http://plaisir.genxx.com/?p=187)が入ると、<敵/味方>論法が作動し、なんか相手に過剰な「誠実さ」を求めはじめるよな…。誠実な対応、誠実な謝罪、名誉回復etc...。「あなたは道徳的じゃない!」「人の痛みを知れ!」「マッチョは云々!」と。ネットでブログの書き手に「誠実さ」を求めてもしゃーないと個人的には思うけれども。そもそも書かれたテクストと書き手の人格は切り離して考えた方が生産的じゃないか。

http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080304/1204622039

 経済システムとして資本主義を用いる事と別に、社会維持のためのシステムは必要なのだ。でなければそもそも、資本主義、とやらも存続できないのだから。

 資本主義下の競争をやりたければやればいい。だが、競争であれば競争のルールを決めておく事は無意味じゃない。再分配のためのルール、労働条件のルール、例えば正規採用以外は認めない、とかね。それでは企業が維持できない?そんな企業が淘汰されるのだって競争の一つだろ?

 現在問題なのは、どこの国もルール、つまり条件の引き下げに走っている事だ。発想を変えて、全面的に再分配と労働条件のルールを世界的に徹底させる。その方が効果的だ。

 ここらへんの(「セーフティーネット」的な)ルール問題を具体的に(感情的怒りを切り離して)考えていく、ということにフォーカスするしかないのでは。マッチョかウィンプかの二択ではなく、折り合いの付け方を模索していくしかないのだから。

 あるいは、これは各人の政治的立場(双方にとってそれぞれの「正しさ」や「誠実さ」)を賭けた真剣な「闘争」だというならば、それはそうなのだろう。これ以上書くと毒矢が飛んできそうなので、やめておく。

 最後にあらためて宮台を引用。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=598

双方心から謝れない事情があるとき、双方の未来のために「これで過去は問わない」と約するのが手打ち。頭を丸め、頭を下げる。十分じゃないかと。手打ちとは感情的納得とは無縁。感情的に納得できないことについて互いの未来を考えて契約するのが手打ちで、契約とは自由意志に基づく自由意志の制約です。

(追記)東さんのこの問題意識には、本当に、実感として共鳴する。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html

 ぼくは「政治」という言葉は、個々人の立場表明を意味するのではなく、社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動を広く意味するべきだと考える。だとすれば、それは必然的に、物語なき進歩主義、というか物語なき改革主義の立場になるはずだ。

 ぼくたちはまず、「政治的であること」とはなんなのか、そこから根本的に考え直さねばならないのだ。ぼくは『思想地図』は「政治的」な雑誌にしたいと思うが、それは、この世界のよりよい資源配分について語りたいからであり、物語=イデオロギー闘争をやりたいからでも、また弱者代弁競争をやりたいからでもない。

 友と敵を作って、そのうえで他者を尊重したりなんだりする。それはとても「人間的」であり、高級な話ではある。実際、それはある範囲ではますますやるべきだ。たとえばブログとか。ぼくはそう思っている。この点を誤解してほしくない。

 しかし、政治の本来の目的が共通資源のよりよい管理にあるのであれば、その過程が必ずしもそういう人間的で高級なコミュニケーションに結びつく必要はない。ポリシーなき政治、討議なき政治だってありうるはずだ。

 ぼくたちは、市場=動物=自然状態=無意識的創発=格差拡大、vs、民主的討議=人間=イデオロギー=意識的管理=平等志向みたいな対立図式にいつのまにか囚われているが、ほんとうにそれしかないのか?

 物語なき政治。討議なき公共性。友も敵も作らない環境管理。政治を動物的なものに変えること。それは具体的にはなにを意味するのか。

 今回の場合、「具体的」には、感情的納得とは無縁に、「再分配と労働条件のルール」を確定させていくことだと思うのだが。なんか偉そうなメタ論だと批判されそうだけれども。