【ルール】と【プレー】のちがい、そして【構造】と【実践】のちがい

 こういうのはここに書くべきではないだろうけれど、面白かったので、門外漢が頓珍漢なメモをしてみる。

言語学とは何か? また何であるべきか?異端的研究者の見解(黒田航)」
http://clsl.hi.h.kyoto-u.ac.jp/~kkuroda/papers/my-view-of-linguistics.pdf

 コトバをゲームとして考える時,多くの人が思いつくのはそれに規則=ルール(rules) があることだろう(中略).だが,私はコトバをゲームと見なすアナロジーには,それよりずっと重要な含意があると思っている.それは,ゲームがルールでは完全に予測も決定もされない“プレー”(plays) によって構成されているという点である.

 実際,どんなゲームでも,“プレーヤー” が“プレー” をするのはルールがあるからではない(ルールはゲームをゲームとして成立させるための制約の体系にすぎない).同様に,コトバというゲームのプレーヤーがコトバというゲームをするのは,(いわゆる文法規則のような) ルールがあるからではない.プレーヤーがゲームでプレーをする理由には能動的な面と受動的な面とがある.能動的な面を言うなら,プレーヤーがゲームをするのは(正確な理由はわからないが) とにかくゲームがしたいからである.受動的な面を言うなら,プレーヤーがプレーをするのはそれがゲーム=試合だからである(特にコトバというゲームの場合,不参加を選ぶことは難しい).ルールを記述することも必要だが,それは不充分である.コトバというゲームのプレーヤーが,どんな時にどんなプレーをし,どんな得点を得る(あるいは失点をする) かを記述することは,それ以上に重要だと私は考える.コトバに使用を離れた実体がないと言ったが,その意味は今はもう少し正確に言うことができる: コトバというゲームの実体はプレーの流れである.

 それと同時に,(コトバというゲームの実体である) プレーの流れはルールでは予測できない.ルールにできるのは,プレーと非プレー=反則の(かなりアドホックな) 境界引きである(これにしたところで,例えば「五秒以内の反則は反則ではない」というメタ規則が存在したり,「審判の目に留まらない反則は反則にはならない」という悪知恵が罷り通るので,ルールはそれほど強い制約にはならない).

 ルールはゲームを決定しない。ゲームは実践として達成されていく。まさに、社会学者のブルデューが(レヴィ=ストロース流の)構造主義に抗して社会学の領域で成し遂げようと試みたことを、言語学の領域にてチャレンジされているのかな、と、目眩を感じてしまった。

http://d.hatena.ne.jp/Gen/20041224#p12

「ここでは認知というのは、心的な構造ではなく、社会的身体が繰り出す慣習的行動の中に埋め込まれた、活動の一部分に過ぎない」
「それは社会的環境と身体の間での複雑な相互作用のごく一部に過ぎず、それゆえそれだけを分離させて形式化することなどできない」
「また、身体化された傾向性は、主観の反省の外側にある以上、それは現象学的なアプローチとも異質である」

 問題は、構造概念(ルール=言語的実体)を一方的に破棄し、すべては分析者が作り上げた幻想に過ぎないとすることではなく、むしろある対象の構造(ルール)的把握が可能になるとすれば、それは一体どういう条件下でなのか、ということを明確にすることなのだろう。

 黒田さんの問題意識は存じ上げないけれど、おそらくスペクトラム思考にたどり着くんじゃないだろうか。構造(ルール)から実践(ゲームの流れ)まで広大なスペクトラムが広がっているけれど、全体的なスペクトラムのどこに焦点を当てるかによって、構造的なパターンがどのレベルで観察可能になり、それが社会的行為との関係でどう位置づけられるかが決まってくる。

http://d.hatena.ne.jp/Gen/20041224#p9

「社会的行為者を分析の対象から抹消し、そのかわりに抽象的な心的構造をおくことによって、様々なレベルでの、異なる意味合いを持つ構造的発現をすべて同一レベルのものとして扱うという危険をおかすことになる。社会的行為の様々なレベルに現れる構造性と即興性のヤヌスの両面を同時に解明するという戦略が、ある意味で現在の社会科学に求められている課題なのである」

 ブルデューハビトゥスとう概念は、構造(ルール)的感覚を維持しつつ、それを心的構造[認知]として無意識の奥底に普遍的に設定するのではなく、日常的な活動レベルに設定したものだ(構造性と即興性の調停)。この概念は、意味生成の基盤としての身体へ執着しており、世界内に組み込まれた身体性を強調した彼の師メルロ=ポンティの議論が加わっている。

 ちなみに、ブルデューについて。下線部は引用者。
http://www.dsnw.ne.jp/~goodhill/010921-brd.htm

ブルデュー社会学の基本用語とその方法の説明】

■ pratique(プラチック、慣習行動、実践)

社会的行為者が実際に生活の中で行っている行為。計画・目的意識を伴った行為ではなく、断片、非意識的、言行不一致の行為である。

■ ハビトゥス

① プラチックな場面で、体系的な道徳、行動規範がなくとも私達はいくつかの原則に従って行動する。その物事を選び分ける身体化された原理がハビトゥスである。身振り、立ち方、歩き方、話し方まで規定しているものであり、その場その場で自分がなすべき唯一の振る舞いを正確にするものである。
ハビトゥスは固定されたものではなく、社会の中で自分の占める位置が移動すると変化する。可変するプラチックの生成原理であり、構造化する構造である。
③ 瞬間的なゲーム感覚の行動として実際に機能するが、長い時間をかけて恒久化されてきたものを背景にもっている。

 ハビトゥスに「進化論的アナロジー」を持ち込むという発想、自分もいただいておきます。と、頓珍漢なメモでした。まったくズレているんだろうなぁ。でも、ちょっと、個人的に黒田さんヲチしたいです。部外者ですが。