あんな記事を書いたけれど

 はてブは「人気エントリー」に入るとインフレが凄いなぁ。あとで読むためにとりあえずクリップする、という層が、ぐんぐんアクセスを押し上げていく。300超えたのか。経路依存性の問題も含めて、もっと色々と観察してみれば良かった。今日は忙しかった。

 で、あのような記事を書いたけれど、「まるごと愛して」願望ってのは、身を切り裂かれるくらい、痛いくらいにわかるんですよ。たとえば自分は完全に叙情派なので、「セックスは純粋に快楽です。こことあそこを触ってください」なんて面と向かっていわれたら、たぶん勃たないと思う。たとえ一晩の恋であれ。独占欲とは違う。少なくとも、二人で触れ合っているその瞬間には、「あなただけ/わたしだけ」という幻想に酔いたい。「愛」というただその一言の言霊に包まれていたい。

 一晩のデートは演劇のようなもので、小屋の中で「愛」というプロットにのっとって、お互いに「恋人」という役割を演じ切りたい。これは自分の欲望として圧倒的に強く存在している。早い話が、「セックスうまいね」といわれるよりは、「一緒で幸せ/会えて嬉しいよ」と言われる方が、何千倍もグッとくる。「セックスしよっ!」じゃなく、「会いたい」と言われたい。「会いたい」って本当に綺麗な言葉だなぁ。切にそう思う。誰かに「会いたい」って言われたい。言ってください。男の人でも、女の人でも。

 話を戻そう。「愛」という神話をそれ以上分解しないことについて。神話は分解しないからこそロマンスとして機能する。言語化・理論化すれば、陳腐なものに切り詰められてしまう。何事も、言葉や理論にしてしまえば、固有性を失い、交換可能なものになってしまう。だから、「あえてそれ以上言葉にしない」という思いとどまりは、ものすごく価値ある行為なのかもしれない。これができる人は大人だね。「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」じゃなく、「語ろうと思えば語れるけど、演じているのだからあえて沈黙し、超越的な力を得る」という感覚。

 これは、「正しい/正しくない」という倫理的な語彙ではなく、どちらかといえば「粋/野暮」といった美的な言葉で捉えられるような種類の感覚。そう、あえて細かく語らないことによって、おおざっぱな言葉は「言霊」を獲得する。「神」だってそうだ。分析的に語れば、野暮になってしまう。

 じゃあ、あのような記事を書く意味はどこにあるの?と聞かれれば、こう答える。いろんな考え方のストックがあれば、様々なかたちを包容し抱擁できる社会を築いていけるかもしれないじゃん、と。シビアなセックス観を実際の恋愛の場面で作動させるかどうかは別にして、「こういう風にも考えることができるんだ」という思考のストックがあれば、行き詰まったとき、絶望するのではなく、スッと呼吸できるかもしれない。

 まとめ。言葉を分解する行為は、ある種の暴力でもある。分析的なコードを常に作動させるのは、全然誇れることじゃないと思う。だから、自分が書いた文章を、【考えが深い人間が考えの浅い人間を啓蒙している】的な構図で捉えられてしまったとき、本当に、深く深く胸を痛める。それでも、考え方のストックを貯めておくことは必要だ。誰かが、そして何よりも自分が、いずれ必要とするかもしれないから。あの文章、ないし山口みずかさんの本が、誰かの肩の荷を降ろしていればいいなぁと、強く願うのだった。