匂景 - smellscape

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■巷では「セックスしてからでないと好きになれない」などと言う人は淫乱症を疑われてしまう。だがそう言う人の多くはたぶん私のように、匂いが分からない限り好きになれるかどうか分からないというタチなのではないか。さて、私はどんな匂いが好きなのだろうか。
■私は長らく初恋の女の匂いに関係するのかなと思っていた。だが、最近、危篤状態にある母親に頬ずりをして、違うということが分かった。やはり遠い記憶に残っている母の匂いが「原体験」を構成していたのである。それにしてもこれほど匂いに執着するのはなぜだろう。

■そう。私が匂いに執着するのは、たぶんそれが人為から最も遠いからだろう。再開発や化粧で街や人を飾っても匂いは消せない。しかし匂いを完全に消せた暁に--映画の男も完全に無臭だが--街は街でなくなり、人は人でなくなる。匂いは入替え不可能性に関係しよう。

 どうだろう。「匂い【だけ】が入れ替え不可能性に関係する」という立論ならば、それは嘘だろう。たとえば自分は耳が敏感なので、女の子一人一人の「声」に過敏に反応するし、多くの「声」をまだしっかりと覚えている。視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚、それぞれが固有の彩りや肌触りを持った「入れ替え不可能性」を備えているように思われるし、匂いを特権化するならば、五感を比較して議論しないと意味がない。もちろん、科学的にいえば、匂いはホルモン分泌と関わるという特権性を持っているだろう。では、解釈学的にはどうだろう。

 …と、エッセイに対して野暮なツッコミを入れてしまった。そして今、ふと「匂景」(smellscape)という言葉を思いついた。検索をかけてみたところ、smellscapeという単語は学問としてすでに成立しているようだ(参照)。そりゃあな、soundscapeの次に誰もが思いつくよね、と笑った。ところが、Googleでたった700件程度のヒット数。日本語で「スメルスケープ」を検索してみると、500件程度。「サウンドスケープ」ならば、飽き飽きするくらい見つけることができるのに。そういえば、身体論の大家であるメルロ=ポンティも、嗅覚については一切語っていなかったのではないか?

 「嗅覚風景」という訳語が学問的には正しいようだが、あまり美しくないから、「匂景」と個人的に呼びたい。そして「匂景」の固有性について、ずっと考えていきたいと思う。