偏差値教育は(皮肉ではなく)実に素晴らしい
まぁ散々言われていることだろうけれど、偏差値教育って本当に素晴らしいな、と思う。テストの成績以外で人を判断されることほどうざったいことはないから。たとえば、先生の主観で点数が決まる「内申点」制度の気持ち悪さを、公立学校に通ったことがある人ならば、誰しも味わっていると思う。あるいは、「テストの成績ではなく人間性評価で合格を決めます」と宣言する大学があったならば、なんて恐ろしいところだろう、と思ってしまう。
テストの成績で人が評価されるとき、そこには明確な評価基準が存在していて、また、誰もがその評価基準を理解し共有している。いわば、透明性が高い。テストの成績が悪かったことを誰か他の人のせいにはできない。だから、清々しい。そしてテストで良い点を取っていて、かつ常軌を逸した行動を取らない限りは、どんな生徒でも認めてもらえるのだとしたら、むしろ多様な個性が育ちやすいともいえるだろう。先生が生徒の人間性を総体的に判断して点数を付けるような教育制度の下では、むしろ先生に怯えて縮こまってしまう生徒が増えるだろう。
実はこれと似ているのが、「経済学的なものの見方」だ。経済成長率だとか、「いくら稼いだか(所得)」だとかは、明確に誰もが客観的な視点から理解できる、評価基準が共有されたものだ。ゆえに、その評価基準に基づいてある方向性を決めるのは、フェアだといえる。たとえば、これまで散々引用している、macskaさんの【石油利権による利益だけを狙う腹黒いブッシュ大統領と、中東の人々を圧政から解放して民主主義を導入することを本気で狙う理想主義者のブッシュ大統領のどちらが世界にとってより危険か】という話にも絡んでくる。あるいは、「美しい国」「みんながより良く生きる国」「お金より大事なものを追求する国」を作るために政策の方向性を決める首相よりも、「景気を良くする」ために政策の方向性を決める首相の方が、よほどフェアで理解しやすい存在だといえるだろう。
偏差値教育の話に戻そう。もちろん、偏差値(テストによる学力判断)以外に客観的な評価基準を作ることが出来るのであれば、かならずしも偏差値教育である必要性はない。でも、そんな基準、どうやって作るの?ボランティアに参加した回数(笑)?