熱意の非対称性

 今更ながら、にせ科学云々の騒動で感じたこと。あの騒動を通して、日夜精魂込めてにせ科学問題を語っている人たちのブログを色々と目撃したわけだけれども、純粋に「すげーなー」と思ってしまった。自分の場合、その問題に関わる熱意が決定的に欠けている。情熱的にこちらの記事を論破しようと仕掛けてくる人がいても、真正面から向き合う気にはならず、「はぁ…」となってしまったのが本音だ。

 人はそれぞれ優先順位を抱えている。自由な時間があるとき、にせ科学系ブログの議論を丹念に追うよりは、痺れる音楽を聴きながら酒を飲み、大好きな本を読みたいと思うよな、純粋に。なんで趣味としてのブログでわざわざしんどい思いせなかんの?って感じで。

 ネットの怖さというか、ブログの決定的な「非対称性」がここにあると思う。つまり、あるひとつのトピックに対して、日夜情熱を激しく燃やしている人から、ただ緩い関心を持っているだけの人まで、広大なグラデーションがひろがっている。緩い関心を持っているだけの人が、うっかりと繊細なトピックに触れると、情熱的な人からの集中砲火が飛んでくる。このような「熱意の非対称性」が、様々な軋轢を各所で生んでいるのだと思う。

 自分にとってネットは、中田英寿的な自分探し(笑)と同じく、緩く興味を持ったことを、幅広く「つまみ食い」する場所だ。もちろん、ネットの世界でもイチロー的な「選択と集中」を行えば、アクセス数を稼ぐことができるだろうし、あわよくば「アルファブロガー」にもなれるだろう。たとえば認知科学専門のブログをやる、とか。でも、そんなの、ちっとも魅力的じゃないよな。自分にとってネットの魅力はその「緩さ」にあるのだし、バラバラな価値観を投げ散らかして、誰かと一部分を共有しあえたり、あるいは反発しあえたりしたならば、それだけで収穫だ。アクセス数を稼ぐためにネットで専門的な(「選択と集中」を行った)ブログを運営している人って、つくづく「すげーなー」と感じる。

 まぁ、緩い人間が情熱的・専門的な人間と衝突したときに、できることはただひとつ。自分の落ち度があればその点については謝罪し、あとはまったりとやりすごすだけ。どこかで叩かれていようとも、知らんわな。