テレビを観ない世代がともに会話できること

 Blogで言及した「テレビの未来」 で描かれているような、誰もがネットを使ってそれぞれが得たい情報にランダムアクセスする時代がやってきたら、どうなるだろう。テレビを観ない自分がいま一番困っているのは、はじめて出会う他者とのコミュニケーションが難しくなってしまったこと。同記事についていたブクマのコメントを借りれば、「テレビで広がるコミュニケーションもあるからね、フツーの人には」「テレビみなくて困ったことといえば合コンのときテレビ話題についてけないことくらい」ということ。

 「マス」に向けて均一的な情報を押しつけるテレビが機能している時代、わたしたちは、興味関心や職場・学校・経歴を共有していない誰かと、難なくコミュニケーションをはかることができた。興味はなくても「あぁ知ってる」という最低限の話題は共有できたわけだから。たとえば、ジャニーズなんて心底どうでもいいけれど、SMAPがどういうグループなのかは皆が知っていた。でも、「ランダムアクセス」的なネットの時代がやってきた時、なにを話せば良いのだろう。

 東浩紀は的確にもこう書いている。

 ネットは、本質的に「非同期的」なメディアである。ネットの設計思想は、同じ情報を一気に多数に配信するよりも、それぞれのユーザーに、それぞれの要求に応じて、それぞれのタイミングでばらばらの情報を配信することに適している。だから、ネットのユーザーは、ネットに接しているだけでは、「みなが同じものを見ている」「ほかのユーザーと同じ時間を生きている」と実感することが決してできない。だからこそ、そこ[引用注:ニコニコ動画]では「つながり」がとくに強く欲望されたのではないか。(参照

 テレビを観ていない人にとって、それぞれが接している情報はバラバラであり、かつ、それぞれがリアルタイムに同じ情報に接しているという「つながり」感も得にくい。さあ、合コンで、女の子となにを喋ろう。なにを喋れば、お互いに共感しあえるだろう。もちろん、人として最低限共有できる話題はある。それはおそらく、生物学的基盤に根ざしたもの。進化的背景から、大多数の人間がつい興味を掻き立てられてしまう話。そして、誰もが経験している事柄についての話。最強なのは恋愛やセックスネタだろう。

 これくらいじゃないかな?と思ってしまう。つまり、ものすごく個人的・身体的な話題がどんどん前景化してくる一方、政治や社会についての話題は極端に減るだろうな、と思う。ネット時代に、セックスや恋愛以外の話について、なにか共有しうるのだろうか。

 これは合コンにかぎった話ではない。興味関心や職場・学校・経歴を共有していない誰かとコミュニケーションをはかるとき、興味はなくても「あぁ知ってる」という最低限の話題を共有していないならば、日常について語るしかないじゃないか。家族揃ってテレビのニュースを観る習慣がない家に育った「ギャル」は、ほんとにニュース的なものに触れないまま育つだろうなぁ。つまり、テレビは、人々の興味関心を社会に開く(接続しておく)ために、最低限のセイフティーネットとして機能していたはず、とはつくづく思うのだ。みんながバラバラのニュースを追いかけていたら、「公共性」ってのはどこに立ち上がるの?