エーリッヒ・フロム書評の楽屋裏

 Blogに書いた記事の後日談。彼みたいな愛し方、自分にはできないし、するべきかどうかもわからない。でも、自分の軸がぶれたとき、つまり自分が実存的な問いにぶつかったときに、彼の言葉は、ひとつの灯台になって道を照らしてくれるように思う。あくまで、自分の生き方を担保するひとつの可能性として、ちゃんと心の底に留めておきたいなと思った。

 彼の凄いところは、キリスト教的な思想を、自分の論理のなかに見事に消化してしまっているところだ。人はみな神にならなければならない。神のためじゃなく、自分のために人は神になる。そして、各個人が自分を愛し、誰かを愛し、愛が協奏曲を奏でたとき、はじめて生きるに値する社会がやってくる、という思想。ものすごいユートピア思想。でも、人を信じることが愛の条件なのだから、彼にとってはなにも理想論ではない。そこに胸を深く打たれる。

 彼の本の中では、無条件の愛を象徴する母性原理と、条件付きの愛(たとえば「正義を守るかぎりにおいて愛する」)を象徴する父性原理のふたつが登場する。発達の過程において、母は無条件の愛を教えてくれる。他方、父は原理(正義・平等etc)を遵守することが人間の条件であることを教えてくれる。しかし、成熟した大人になったとき、人はふたつの原理を(与えてもらうのではなく)自身の体内に消化して、みずからが二つの論理を他者に与えられるようになる。ジェンダー論的にいえば、古くさいなと思う人がいるかもしれない。でも、これはきっと名づけ方が悪いだけ。「原理A」「原理B」とするならば、なにも問題はないはずだ。

 彼は繰り返しいう。神のためじゃなく、自分自身が神にならなければならない、と。でも、他者も神なのだから、わたしという神は全知全能ではなく、一部であり同時に全体であるような神だ。パラドックスを解消した、可能性を信じた神。

 ぜひ読んでみてくださいね。昨日書いた東洋思想ネタも、同書より。で、今日は仏陀の言葉をパラパラ読んでいますw