東洋思想の強引なまとめ

 あくまで理念型(ひとつの極端なモデル)としてまとめれば、つぎのようになるのだろうか。

 アリストテレス以来、西洋世界はアリストテレス哲学の論理にしたがってきた。その論理は、つぎの3つを含む。

同一律(AはAである) 
矛盾律(Aは非Aではない) 
排中律(Aは、Aであると同時に非Aであることはできないし、Aでないと同時に非Aでもないということもありえない)

 簡単に言えば、「男でないのに男である」とか「お金があるのにお金がない」という言明は禁止されているわけ。

 ところが、東洋の宗教は「Xは非Aであると同時にAでもある」という逆説論理学を積極的に認める。たとえば、「われわれは存在するのでもあり、存在しないのでもある」と。これって「偶有性」の概念そのまんまじゃないですか。だから個人的にとても面白い。

 道教の考え方では、思考が達しうる最高の地点は、自分の無知を知ることだ。「知っていながら知らない[と思う]ことが、最高なのだ」。だから、当然、神を言葉や思想などでは捉えられないことになる。究極の「唯一者」は、言葉や思想では把握できない。

 踏みしだくことのできるような道は、恒久不変の道ではない。名づけられるような名は名ではない。(道教

 二つの対立するものが知覚されるのは、物が対立しているからではなく、知覚する心が二つに対立しているからだ、とバラモン教は考える。対立は人の心に関するカテゴリーであって、それ自身は実在の一要素ではない。だから「わたしは世界の一部であり、同時に全体である」という排中律を犯した思想が出てくる。

 わかりやすい例として、暗闇でゾウについて説明するようにいわれた人々の話がある。ゾウの鼻に触った人は「この動物は水ギゼルのようです」といい、足に触った人は「この動物は柱のようです」といい、耳に触った人は「この動物は扇のようです」といった。それぞれ、一部であり、同時に全体であるようなものに触ったわけだ。ただし、「それが実はゾウである」という世界の真実を決して人間は認識できないとするわけ。

 だから、思考は矛盾においてしか世界を知覚できない、ということになる。神が最高の実在であり、人が矛盾においてしか実在を認識できない以上、神について肯定的に語ることはできない。たとえば、ヴェータンダ哲学では、全知全能の神という観念は、無知の極みとされる。人間は最高の実在を、否定的にしか知ることができず、肯定的には絶対に知ることが出来ない(だって「ゾウであること」を知り得ないのだから)。唯一なる神は否定の否定、否認の否認である。ここから、神とは「絶対無」であるという観念が生まれてくる。

 思考はただ、思考によって究極の答えを知ることはできない、ということを教えてくれるだけだ。だから、世界を知るただ一つの方法は、思考ではなく、行為、すなわち神との一体感の経験だということになる。いくら正しい思考を重ねても、神を知ることはできない。神は正しい行いによって知るのである。

 バラモン教でも仏教でも道教でも、宗教の究極的な目的は、正しい信仰ではなく正しい行いだ。実は、マルクスもこれに通底している。「世界を知るのではなく変えることが大事だ」なんて言ってたわけだから。

 思考ではなく行為が真理に至る道だとすれば、教義を発展させることよりも、むしろ人間を変える(自分自身が変わる)ことが重要になる。だから、密教的な「禅」なる思想が生まれてきた。否定に否定を重ねて、いろいろと「意味」すら削ぎ落として、行為として絶対無に至ろうとする「禅」の思想が。

 ほるほる。