ネット上で誰かと「理解しあおう」としても無駄な理由

 ネットで誰かと議論しお互いに「理解しあおう」とする試みは、基本的に時間の無駄といって良いと思う。だから、「スルー力」が一番求められているというのは、本当にその通りなのだな、と。

 まず、ネット上のやりとりでは、「言葉しか使えない」というどうしようもない困難さがつきまとう。リアルな対面状況におけるコミュニケーションでは、言葉以外にも、身振り手振り・表情・声のトーンといった、無意識的・非言語的情報(文脈に関する情報)や、情報発信者の信念・欲求・意図など(「情報に関する情報=メタ情報」)が豊富だ。しかし、言葉のみに基づくやりとりを強要されるネット上でのコミュニケーションでは、そうはいかない。

 人間が無意識で処理できる情報量は膨大(一秒当たり数兆ビット)であるのに対して、意識で処理できる情報量は極めて少なく(一秒あたり十数ビット)、人間の「心」はまず何よりも無意識的・自動的なプロセスに支えられて認知・行動しているといえる。だから、意識レベルでの「言葉しか使えない」コミュニケーションは、基本的には失敗を運命づけられている。たとえば、リアルに面と向かってしゃべれば5分で伝えられることを、ネット上の【言葉のみに基づく】文章で伝えようとすると、おそらく10倍程度のコスト(時間と労力)がかかる。

 では、どうしようもなく困難なネット上でのコミュニケーションが成功するのは、いったいどういう場合だろう?いくつか理念型を考えてみた。

1.学問のルールに則る場合
 これは、【論理とデータのみにもとづいて冷静に論証しあおうとする態度】を双方が持っている場合のみに実現される。いわば、論文のやりとりのような態度。たとえば、ある研究者が書いた論文に対して別の研究者が批判を行うとき、「不愉快な文章」「君の論文には自己満足的な陶酔だけを感じる」なんてことは絶対に書かない。許されているのは、論理とデータに基づく批判(検証)だけだ。人格批判を行う者は低脳君の烙印を押されてしまう。ネット上でやりとりを行う2者が、このルールを守ることができる場合、コミュニケーションは例外的にうまくいく。これがいわば「議論」というやつ。そんなの滅多に見ないけれども。

2.お互いに信頼関係がはじめからある場合
 ネット上でやりとりする2者の間に信頼関係(相互に尊敬し合っている関係)があらかじめある場合にも、コミュニケーションは例外的にうまくいく。なぜなら、完全に相手の文章を理解できなくても、相手の書いた文章からお互いに何かを学び取ろうとするポジティブな姿勢を持とうとするからだ。議論は深まらなくても、お互いに相手の文章から「気づき」や感情的な「共感」を得ることができるというレベル。ネット上で一見うまくいっているかのようなコミュニケーションは、たいていこのパターンであることが多い。たとえば、ブログのコメント欄における読者とのやりとり、とか。そして、「共感」をお互いに分かち合うためのメディアとして、ブログは悪くない。

3.共通の目的(利害関心)を抱えている場合
 たとえば「リフレを推進したい」とか「著作権のカタチを変えたい」とか「疑似科学を批判したい」など、共通の目的(利害関心)を持っている者たちのあいだでは、コミュニケーションがうまくいく場合が多い。たとえ相手に違和感を感じたとしても、「お互いに批判し合うよりは共通の目的に向けて手を組む方が得だよね!」というプラグマティックな視点を持つことができるからだ。泥沼に入りそうになったとき、お互いにとって共通の目的を再確認することによって、コミュニケーションは円滑に進行する。

 さて。これら3つのケースのどれにも当てはまらない場合、見知らぬ誰かとネット上で「わかりあおう」とすることは、基本的に時間の無駄といえるだろう。かける労力の割に、得られるものが圧倒的に少ない。自分の政治的主張を押し通すためにパフォーマンスを行うときをのぞいて、わたしたちに求められているのは、健全なる「スルー力」。「シカト」する力。「理解し合おう」としても無駄だという諦め。最近ようやく気づいてきた。ったく、この程度のことに気づくのに、いったい何年かかったんだか。反省。もちろん、おおざっぱに理念型を考えたから、漏れがあるかもしれないけれど。

 結論。ネットでは、気の合う者たち同士でつるんでいればいい。島宇宙化万歳ですよ。その意味で、はてブは鬱陶しいシステムだとは言える。