お金のためではなく自由のために競争社会を肯定する

という考え方。この点は深く考えていなかった。大事な点だと思う。メモメモ。

http://wiredvision.jp/blog/kojima/200802/200802200000.html

 これらの例で鈴村が主張したいのは、競争の価値が、それがもたらす帰結にあるのではなく、「競争という手続き」が人々に与えるその「機会」にこそあるのだ、ということである。もっと象徴的にいうなら、競争は「自由」や「権利」を担保するもの、ということなのだ。

 さらに突っ込んで考えるなら、次のようなパラドキシカルな結論にも到達することになる。つまり、わたしたちに「参加の機会」や「行動の自由」や「欲望実現の権利」を保証するためには、競争が是認されなければならない。ところがそれは、「最適でない結末」や「効率的でない帰結」をも選択肢として容認する、ということに他ならない。そして、容認したからには、そういう帰結が生じる社会的な誤謬も覚悟し決して不平をいわない、ということになる。大胆に端的なまとめをするなら、こうなる。つまり、「競争」を「自由」や「機会」の代用品として利用するということは、「最適な帰結に到達できないリスク」を受け入れる、ということなのである。

http://wiredvision.jp/blog/kojima/200802/200802281000.html

 前回から論じているように、鈴村の主張は、「このように、競争というのがいつも社会にとっていい帰結をもたらすわけではない。そうであっても、競争は尊重されるべきである」、ということなのだ。なぜなら、それは、競争それ自体が、社会のすべての人にチャンスと自由を与える唯一の方法だからである。