id:yufuさんへのお返事

すいません、長くなってしまいそうなので、別記事にて書かせてください。

http://d.hatena.ne.jp/amourix/20080215/1203093862#c

ルールとマナーの問題ですね…ルールさえあれば、余計な気を回すことがなくなるというか。
東京に行くたびに、なんだか個人主義が急速に進んでいるように感じられるんですが、住んでおられるほうとしては近年どうでしょう?
コミュニケーションの気持ち悪さをどうにかしたい、とどんどんルールを作って他人とかかわらないように、という方向性が、読んでて面白いんですが「東京的な」感覚の変化なのかなあと。あるいは、それは何年か遅れで地方にも伝達していくのかしら…

譲るといえば、譲ったあと、目の前に無言で立つことも気まずいよね、という感覚がありますね…私はあれのほうが気まずくて、次の駅で車両を変えたりします…。(譲ったあと、無理に去っていく人も見たことがあります)なんだか、「わたしはあなたのかわりに立たされている」のを誇示しているみたいで、あれは気持ち悪い…

個人主義と東京

 個人主義の蔓延が東京的なものなのかどうか…どうなんでしょう。自分は名古屋→東京と移り住んでいるので、東京の特異性はあまり感じなかったりします(むしろ自分の個人主義的な立ち位置は遺伝的な性格因子が大きく効いているのだと思います)。

 たとえば渋谷のスクランブル交差点でコケたとき、多くの人は「シカト」して素通りしていくでしょう。でも、渋谷の個人営業のカフェに入って気分が悪くなって苦しんでいるときには、そのカフェのマスターが声をかけたりタクシーを呼んでくれるみたいだし(実話)、一概に東京=クールとは言えないのではないかなぁ、と。人間関係を築いている人同士ではそれほど個人主義的じゃない、でもひとたび街に出れば個人主義のオンパレード、という感じがします。【東京=人が多すぎる=余計なことに気を回していると(認知コスト的に)立ちゆかない場面が多い=個人主義的に見えやすい】。だから、ひとまず、地方がコンパクトな共同体を維持できているうちは大丈夫なんじゃないかな?と考えます。

 もっとも、一般論として言えば、【1.都市化の進行(共同体の喪失)+2.アメリカ的な価値観の流入+3.ポストモダン的な相対主義の誕生=大きな物語の終焉=絶対的な価値観は成り立たなくなった】ので、地方でも(ある程度)個人主義化が進行するとは思いますけれども。そして、実感に近いなと思ったのはこの分析です。

http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/nbonline.cfm?i=2007122100478cs

 かつての大衆は常に同じ情報を求め、同じ消費を志向していました。しかし、インターネットにより“個”を志向し、また“個”が尊重される文化が、急速に一般化する時代になりました。そんな“個”を求める消費者も行き過ぎた“個人主義”に次第に孤独感を感じ、自分の立ち位置を見失っていく中で、逆に他人と繋がりたい、共通の場が欲しいという思いが出てきたように思います。だから、誰かの呼びかけに応じて一瞬は“大衆”として群れをなして、新製品に殺到するのです。しかし、以前の大衆と異なるのは、また次の瞬間、元の“個”に戻っていってしまいます。

 つまり、東京人も個人主義に耐えられないから(どこかで)強烈な共同性を求めている。でも築き上げた共同性は束の間のもので終わってしまうケースが多い、ということです。純粋に個人主義というわけではないけれど、「誰かと精神的につながりたい」という欲望が、東京では(あまり)持続しないのだと感じます。誰かとつながりたい、つながりあえて幸せ!、そしてそのつながりはすぐ解けてしまう、でもそれでいいじゃん!という感覚です。お祭り的な。

■個人の領域/公共的な領域

 電車で老人に席を譲る行為がマナー的なものではなく(完全に)ルール的なものになったとしたら、もちろん、自分だって一抹の寂しさを感じます。「人間性は何処へ行ったんだ?」と。でも、それは(脱)近代社会では仕方がないんじゃないかな、とも思います。「想像力から責任がはじまる」という言葉があるように、個人の思想の領域では、倫理的・マナー的な「痛み」を感じていたい。でも、(異なった価値観を持つ他者と合意形成しなければならない)公共的な領域では、ルール重視でクールに対処しましょう、という考え方です。

 ポストモダン以後の現代社会では、誰もがそれなりに自分の価値観の正当性を主張できます。だから、もし倫理(正しさ)を賭けて争ったならば、膨大な精神的コストがかかるし、暫定的な決着すら付かない場合が多い(右翼と左翼の不毛な論争のように)。Pinkerの道徳性議論じゃないですが、「自分は正しい」という気持ちに基づいて他者とコミュニケーションを図ると、ディスコミュニケーションになりやすい。だから、公共的な事柄について合意形成するときは、なるべくクールに感情を切り離してルール志向で行った方が良い結果が生まれるんじゃないかな?(合意形成された)ルール以上の「誠実さ」を他者に求めると、不毛ないがみあいに終始してしまうんじゃないかな?と、プラグマティックに考えています。

 まとまらない考えを長々と書いてしまい、申し訳ないです…。【席を譲ったあと目の前に無言で立つ気持ち悪さ】については、心底同意します。自分の場合は、席を譲ったあとすぐにスタスタ歩いて1ブロックほど離れますね…。でも、自分のかわりに席に座った人がにこやかにしゃべりかけてきてくれるならば、「束の間の」人間関係を楽しみます。笑