テレビがなかった時代に会話できたこと

sakonさん、コメントどうもありがとうございます。別記事にて答えさせていただきます。

 テレビという手頃な話題提供装置がまだ社会に存在していなかった、そんな過去の時代には、人々は自らのバックグラウンドや興味関心を共有しない他者とどのようにして関わっていたのかな

 自分が考えている大きな流れは以下のとおりです。

1.かつては自分が知りうる世界の範囲が狭かったから、大多数の人間がバックグラウンド(興味関心や経歴)を共有していた。だから会話に困ることはなかった(いわゆる「村社会」)。

2.近代にメディア=媒介物が発達し、人々が認識できる「社会」の範囲が飛躍的に拡大した。しかし、彼らが拡げた世界認識は、「マス」メディアに支えられたものだったので、皆が同じような前提知識を共有していて、会話に困ることはなかった。

3.ネット時代がやってきたとき、世界認識は無限に広がったが、「マス」という全員が同じ前提を共有していることを保証する装置が取り除かれてしまったとき、どうなるのだろう?ということです。

 まず、ヒトという種が進化的にかたちづくられたサバンナ環境下では、「自らのバックグラウンドや興味関心を共有しない他者」が存在しなかった。ふつうの集団は20人、多くても150人程度だったそうな。おしゃべりの大半は、集団内メンバーのの地位や恋愛やゴシップ(誰々が裏切りを働いた、等々)に占められていたそうです。要は、言語的やりとりは、動物の毛繕いと同じような機能を果たしている"verbal grooming"(言語的毛繕い)だったわけです。だいぶ昔に書いた記事ですが、http://blog.genxx.com/?p=209に面白い表があります。


 ところが、近代にちかづくにつれ、活版印刷技術が発達することによって、ある場所に住んでいても、興味関心を拡げる(拡散させる)ことができるようになった。「マス」の誕生によって、「国」という概念も同時に成立した。これはベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』に示されているような状況です。

 近代という時代は、宗教の衰退および実在する共同体の解体の結果、個人の匿名性を際立たせた。しかし、他方では「印刷資本主義」(print capitalism)における印刷された言葉が新聞、小説などのメディアを通して幅広く用いられることによって、実際には何千キロも離れて直接社会的インタラクションを全く持たない匿名の個人の間に「想像上の」絆が生まれ、その結果、同質的な時間と空間を共有するナショナリティからなる「想像の共同体」 (imagined communities)に対する所属感が生じたと説明する。共同体とは本来対面的かつ個人的な接触を基盤として生活様式を高度に共有する集合体であるので、「想像上の」「共同体」とは矛盾用法である。アンダーソンはこの矛盾性の中に近代ナショナリズムの本質を見いだしている。(『文化ナショナリズム社会学』p34)

 印刷資本主義の延長線上にテレビが位置していると思います。新聞とテレビは大差ないはず。どちらも、「マス」の特徴、<情報の共有+時間(同期性)の共有>を持ち合わせている。同じ情報を、同じ時間に摂取することができた(東浩紀が指摘するまでもなく、アンダーソンが書いていました)。だから、流動的な社会がやってきて、バックグラウンドを共有していない人たちとコミュニケーションをとるとき、それほど困ることはなかった。

 そして、「テレビの未来」的なネットの時代はどうなるのだろう、という感じです。拡散防止装置が取り除かれてしまいましたよね。