ネットにて本気で他者とぶつかりたい人はキルケゴールを読んだ方がいい

 自分が書いた一連の「ネットやブログでそこまで本気にならなくてもいい」という趣旨の記事、

ネット上で誰かと「理解しあおう」としても無駄な理由
http://d.hatena.ne.jp/amourix/20080307/1204868889
本気で議論したい場合ってそれほど多くない
http://d.hatena.ne.jp/amourix/20080309/1205076809

に違和感をおぼえた人は、当然のことながら、数多くいると思う。そのような気持ちにも、共感はできる。で、そういう人は、いまこそ実存主義哲学の大家・キルケゴールの文章を読むべきだと思いますよ。

 というか、雑記帳さんの「インターネットについて - 哲学的考察」という記事は、長いけれど、もっと周知されるべき。
http://d.hatena.ne.jp/ced/20080128/1201490309


 かつて新聞というメディアが誕生したときのこと。思想家のハーバマスは新聞に対して肯定的だった。自分自身の日常生活での利害を乗り越えて、社会全体の利益という公共領域を見据えることのできる市民が育つんだ!と、新聞が創る新たな「市民」に期待していた。

「新聞は誰もがあらゆるものに対して意見を言うように勇気づけてくれる」
「読者たちは、自分たちに直接関係しないことには口を閉ざす内向的傾向を克服し、地域的、個人的な関わりへの限定を乗り越えるように促されるのである」

 ところが、キルケゴールは、新聞が切り開く公共領域を「一つの新しく危険な文化現象」として捉えていた。簡単にいえば、自分にとって切実でない問題にあれこれ軽々しく口出しするアクチュアリティを欠いた傍観者が大量に生み出されるだけじゃないか!と、新聞が創る新たな「市民」を憂いていた。

 「そこでは、誰もが公共的な事柄に意見を持ち論評するのだが、いかなる直接的な経験も必要とはされないし、またいかなる責任も求められないのである。」
「公共領域は自分を局地的な実践から引き抜いて思案する、遍在するコメンテーターたちを育成することになる。この局地的な実践からこそ特殊な問題が生い立ち、その観点からこそ、何らかの種類のコミットメントを持った行為によって問題が解決されなければならないのにも関わらずである。それゆえに、傍観的な啓蒙理性にとって美徳と思われるものが、キルケゴールにとっては不徳なのである。どんなに良心的なコメンテーターも、直接の経験を持つ必要はないし、いかなる具体的な立場をとる必要もない。むしろ彼らは、キルケゴールが嘆いて言うように、原理を引き合いに出すことで彼らの見解を正当化するのである。そうした抽象的な推論が導き出す結論は、局地的な実践に基づいたものではないので、その結論から出てくる提案は、関わり合っている人々のコミットメントを得ることもないだろうし、たとえ法律として制定されたとしてもうまく機能しないであろう。」

 で、この「新聞」というのを「ネット」や「ブログ」に置き換えてみればわかるように、自分の価値観はまさにキルケゴールによって真正面から罵倒されるべきものなんですよ。鋭い議論。

 「[ネットで軽々しく議論する]公衆のずるがしこさ、その良識、巧さは、決して行為することなく判定や決定を下したりするということにある」。このことは、無限の反省の可能性を切り開くことになる。というのも、もし決断と行為が必要なければ、人は物事をあらゆる側面から見ることができるし、また常に何らかの新たなパースペクティブを発見することができるからである。それゆえに、情報の蓄積は際限なく決断を延期させることになる。というのもわれわれが何かを見いだすたびに、世界に関するイメージと、なすべきことのイメージが、改訂の必要に迫られることになるかもしれないからである。キルケゴールは、もしあらゆるものが批判的な論評に無限にさらされているとすれば、行動は常に延期されうると考えていた。「反省は、いかなる瞬間にも、物事に新たな光を投げかけ、何らかの逃避手段を与えることができる」。かくして、われわれはいつまでたっても何もしなくていいのである。

 われわれの時代のような反省的な時代は、ただひたすら知識をつくり出す。キルケゴールが言うように「一般的にいって、情熱を欠いた反省的な時代は、情熱的な時代と比較して、拡がりを獲得する代わりに、その強度を失う、と言うことができる」。彼は付け足して言う。「どの道をいくべきか、どんな道があるか、われわれはみんな知っている。だが、だれひとり行こうとはしないのだ」。公衆が抱いている見解の後ろには誰も控えておらず、従って、誰も行動しようとはしない。キルケゴールは自分のジャーナルの中で次のように書いている。「ここにはこの上なく恐ろしい災厄が二つあり、それは実際、非人間性をもたらす原動力となっている - すなわち、新聞と匿名性である」。そこで、キルケゴールが新聞のために提示するモットーは次のようなものとなる。「新聞によって、人は可能な限り最も短い時間で、可能な限り大規模に、可能な限り安い値段で、堕落するのである」。

 これはテンプレにしても良いほどのキツい罵倒だと思う。「ネットによって、人は可能な限り最も短い時間で、可能な限り大規模に、可能な限り安い値段で、堕落するのである」!

 インターネットは、世界中からある集められた匿名情報満載のウェブサイトと、どんなトピックについても無限に何の結論も出すことなく討議できる関心グループから成っている。この関心グループには、世界中の誰もが資格審査なしで加わることが可能である。もしキルケゴールがこうしたインターネットを目の当たりにしたならば、それを、新聞及びコーヒーハウスの最も悪い箇所をハイテクでくっつけたものとみなしたことだろう。

 結論。自分のような「趣味としてのブログでマジになるなよ」という価値観の対極に、キルケゴール的なアクチュアリティを問う議論が存在する。「どちらの価値観もアリだよね」と、【あらゆるものが批判的な論評に無限にさらされているとすれば、行動は常に延期されうる】状態を体現している自分が、ヘタレなのは間違いない。