親密な他者に分析的な目を向けるか否かについて

 結婚しようと思っている相手が将来病気にかかるか否かは大きな問題だろう。いくらサラブレッドの彼氏でもぶっ倒れたらいろんな意味であまりに辛い。結婚相手が将来かかるであろう病気のリスクを知りたいとする。なにも相手の血液から抜き取ったDNAの解析結果を簡単に得ることができるDNA解析がデイリーユースに普及する社会が到来するのを待つ必要はない。相手の血縁者の既病歴からそれなりの程度の推測ができる。優性遺伝の病気なのか、劣性遺伝の病気なのか、遺伝率はどれくらいだと現時点でわかっているのか、インターネットを駆使すれば瞬時に情報が集まるだろう。健康診断や病院の問診表には血縁者の既病歴を尋ねるチェックボックス項目がいつもふてぶてしく鎮座している。それにはそれなりにわけがあって、血縁者の既病歴というデータから相手の病気リスクについて(医学的・生物学的・疫学的に)一定程度の推測が可能なのだ。とはいえ、わたしたちは相手の年収見込みを念入りに精査することはあれども、あまり既病歴について分析的に精査することは少ない。また、パーソナリティ特性のようなさまざまな尺度と相関データを駆使すれば、(確率論的な意味で)一定程度に予測可能な事象も結構あるだろう(心の脆弱性、あるいはとある心理的傾向と相関する結婚生活上の出来事など)。研究者の女の子にこの話を振ると「そこまでやりたくない。むしろあたしと関わることによって相手を変えることができる可塑性を信じている」みたいな返事が返ってきた。親密な他者に実証的な知見を次々と当てはめて自分たちの将来を確率論的に予想するようなやり口を彼女はきっぱりと拒絶した。明示的に、彼女は、知見を適用したくない(すべきでない)領域があるから、その領域については私はそうしないといった。潔い、と思った。自分もたしかにそうなのだ。分析的な目を向けようとはあまり思わない。でもそれはなぜだろう、と。また、分析的な目を思わず向けてしまう部分とそうではない部分が分岐するとしたら、それはいかなる機序にもとづいてなのだろう、と。

後悔していないと、あるいは憤っていないと、仲直りもできない

 現在は横浜市役所に勤めているという、かつての仲間の女の子がやってきた。ひさびさに会えて嬉しかったし元気そうで何よりだった。そして、いつの間にか疎遠になっていたむかしとても仲の良かった男の友人が自分に対して数年来の嫌悪感を抱いてきたということを彼女から伝え聞く。5年ほど前彼と二人で飲んでいたとき、彼に対して自分が差別的発言をしたからだというのだけれども、自分の自覚と彼の言い分とはだいぶ隔たりがある。(彼女を通して聞いた話ではあるが)彼がいうには、自分が彼に対して「おまえは同和だ」みたいな話をしたとのことらしいが、いくら酔っているとはいえそんな発言を行った記憶はまったくないし、発言を行う必要がどこにあるのかわからないし、そもそも正直にいえば「同和」という単語を発すればどのような特質をアナロジーとして相手に投射することになるのかすら把握していないので、ただただきょとんとしてしまうばかり。あまりに遠く混濁した記憶をたぐれば、唯一、かつて彼と何らかの差別意識の問題について語り合ったとき、具体例のひとつとして「同和」という単語を飲み屋で大きな声で発したことがあり、そのとき彼が関西出身という同和問題をアクチュアルに感じる背景文脈を生きてきたこともあって、「そんな単語を人前で大声で出すな!」とたしなめてきた、という断片的な記憶ならばおぼろにたぐり寄せることができる。そもそも自分は「同和」という単語を人前で発することそのものには今現在でも抵抗を感じないのだけれど、彼は、「同和」という単語を人前で出されたことで、彼固有の来歴に由来するある規範的なスイッチが入り不快になり、そのときの自分の何らかの発言をネガティブ方向に屈曲させ膨らまして記憶の端緒に定着させ、その飲み以後のコミュニケーション断絶期間に記憶の内部で件の「同和」発言がぐるぐると渦を巻き自分という存在の表象が嫌悪の強固な鎧で巻き締められ、かつて仲の良かった二人はもう口を聞くこともない、自分にとってはそういう解釈だ、と自分の言い分を彼女に伝えていたら、その話を聞いていた別の女の子が「じゃあ仲直りすれば良いじゃないですか」という。

 仲直り、って何だろう。自分は彼に対して怒りも嫌悪も抱いていない。一方、彼は自分に積年の嫌悪感を持ってきたという。なぜなら、もはや事実の検証が不可能な、細部が生き生きと満ちた彼の記憶のなかに提灯をともす5年以上前の飲み屋のあるテーブルで、自分が彼を「同和だ」と罵ったから。わたしは後悔していない。なぜなら、彼が同和だ、などと発言した記憶はまったくないのだから。わたしは憤っていない。なぜなら、彼を嫌う理由なんてこれっぽっちもないのだから。後悔していれば、謝罪できる。憤っていれば、赦すことができる。でも、わたしは、彼に、なにも、できない。彼も、わたしを嫌っているのだから、何もしてこない。いがみ合ったことも、ののしりあったこともなく、ただただ記憶の中でわたしたちは喧嘩をしていた、そしてわたしの記憶の中ではそれは喧嘩ですらなかったのだとすれば、そこに仲直りするための感情的余地は残されてない。なにを謝ればよいのか、なにを赦せばよいのか、まず彼に何を語りかけようというのだろう。まったく平板でニュートラルな感情状態で彼に「誤解だよ」と伝えたところで、彼は「なんだその態度は!」と応じるだろう。その際、彼の怒りを鎮めようとするだけのエネルギーを持ち合わせていない、なぜならわたしはまったくもって感情的にニュートラル、きょとん、なのだから。彼の怒りや嫌悪といったネガティブ感情の膨大なエネルギーと、わたしのニュートラルでちっぽけな感情エネルギーは、あまりに非対称なのだ。非対称すぎて、とてもではないけれど噛み合わない。彼が志向性をわたしにぶつけてきたとき、わたしは支えられない。何をできるというのだろう。いつの間にか迷い込んだ疎遠さが固着化する森に、空からイワシが降ってくるように、いつかまったく外部から何らかの契機が訪れて、仲直り、できるよう祈る。

因果関係、行為の同定、INUS条件、意図的な行為について

 同じ行為でも、ある側面は意図的だが別の側面は非意図的ということもある。森を歩いていて虫を踏みつぶした場合、「森を歩く」ことは意図していたとしても、「虫を踏みつぶす」ことは意図していなかっただろう。意図性を問題にする際には、行為のどの側面を問題にするのかを特定しておく必要があるのだ。
 …行為は低次(具体的な運動)から高次(抽象的な意味)まで様々なレベルで同定できる。たとえば、同じ行為でも比較的高次で同定すれば「歩く」、低次で同定すれば「左右の足を交互に踏み出す」となり、一方は意図したが他方は意図しなかったと言うこともあり得る。このように、行為のどの側面をどの次元で問題にするのかを特定しておくことは重要である。

 また、行為とその結果を混同しないことも大切なことだ。厳密には、行動の記述には行動の結果まで含めてはいけない。たとえば、森を歩くという行為には、家に到着するという結果は含まれない。しかし、行為の高次同定には結果が含まれていることが多い。「森を歩く」という行為をさらに高次で同定すれば「知人の家を訪ねる」となり、家に到着することまでが含まれてしまうのだ。

 因果関係における原因と結果は釣り合っていなければならない。意図と行為が因果関係で結ばれるためには、意図は結果を生じさせるための過不足のない必要条件でなければならない。
 …行為を生じさせるためにちょうど釣り合った意図などあるのだろうか?Mackie(1974)は、因果関係のINUS条件を提案している。ある原因Cは、結果Eの発生に「不十分だが必要」(Insufficient but Necessary)な条件だといえる。Eの発生には、「必要ではないが十分」(Unnecessary but Sufficient)な条件のセットが関与しており、Cはそのセットの一部、すなわちINUS(Insufficient but Necessary part of Unnecessary but Sufficient set of conditions)なのだ。たとえば、「火災(E)の原因(C)は漏電だった」という場合、漏電(C)はそれだけでは火災(E)を生じさせるのには不十分(I)だが、火災を生じさせるのに必要ではないが十分な条件セット(U but S、可燃材料や酸素の存在、そして漏電)の一部だったという意味だ。これらの条件セットは、火災を生じさせるための必要条件ではないが(漏電ではなく煙草の消し忘れでも火災は生じる)、火災を生じさせるのには十分ではある。つまりC(漏電)は、条件つきの(この条件セットに対してのみ有効な)必要条件だといえる。漏電がなかったら、この条件セットからの火災はなかった。しかし、漏電(C)がなくても火災(E)に通じる、他の条件セットは存在するかもしれない。条件セット内のC以外の条件をXとするならば、CXはEの十分条件セットのひとつであり、Cを必要としない他の十分条件セット(e.g., KX)もあり得るということだ。
 いささか複雑ではあるが、意図的な行為の厳密な定義は「意図がINUS条件な行為」なのだ。行為を生じさせた十分条件セットの中に、意図が必要条件として含まれていれば、それは意図的な行為だったといえる。もちろん意図だけでは行為を生じさせるのに十分な条件ではないが、その他に必要とされる多くの背景条件(たとえば、意図的に視覚刺激を処理するためには、部屋の明かりがついている、刺激が視野に入っている、参加者が盲目ではないことなど)は当然揃っているものと仮定される。ただし、意図を必要としない十分条件セットも存在するので、ある条件では意図的な行為でも、別の条件では意図的ではないこともある。このように、意図が必要条件かどうかの決め手となる背景条件の特定も、意図性の問題を扱う上では重要となる。

 このように、行為(のある側面)が意図的となるのは、その行為に従事しようとする目標表象(意図表象)が原因(INUS条件)となって、その行為が生じた場合だといえる。

 心理過程のどのレベルが因果的に行為を生じさせる力を持つか(あるいは持たないか)は、哲学者たちが盛んに論じている問題でもある。原因と結果は同じ分析レベルに位置し、原因は結果に先行している必要がある。また、原因はINUS条件を満たし、過不足なく結果を生じさせる必要がある。

『無意識と心理学』(ジョン・バージ、2009)

人々を「説明」する行為ついて 観察者のまなざしvs当事者のまなざし 心的過程のモデリング化について

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福島真人(1992) 「説明の様式について あるいは民俗モデルの解体学」「東洋文化研究所紀要」116 東京大学東洋文化研究所 295-360.

久々に読んだらやはり面白かったし自分の背骨となっている論文のひとつなのでいくつかベタメモ。ブルデューアフォーダンスを組み合わせて論じたりしていたことは忘れていたよ。

  • 観察者・研究者(人類学者)が描き出す当該社会に関する図式、あるいはモデルが、いったいどういう認識論上の位置を持つのか
  • 当該の社会を生きる人々が持つ民俗モデル(emic)と研究者が理論的に見いだす分析モデル(etic)の関係をどう扱うかは社会科学の長年のキモとなる部分
  • たとえばレヴィ=ストロースの場合

レヴィ=ストロースの場合、背後には、無意識の構造が存在し、それが人の行動を支配する。規範と言われるモノは、それ自体は単に言明された形式であり、構造そのものではない。言明される規範はモデル(場合によっては貧しい)であって、行為を統制するのはあくまで構造なのである。それゆえある意味では、観察者も当事者も、この無意識の構造に対しては同等のアクセスを持つことになる。だからもし優秀な当事者が存在すれば、彼はその現地の「人類学者」として、自らの無意識的構造にアプローチできることになる。その意味で、民俗モデルも分析モデルも等価性を持つことになるのである。(p.303)

  • まとめると3パターンある

1.言明された規則が行為を縛るという社会的拘束論(当該社会を生きる人々が言明する規範やモデルを当該社会の人たちは生きているとする)
2.無意識の構造によるという深層心理的説明(構造主義
3.目的合理的・合理的経済人・合理的政治人とでも呼べるモデル(当該社会を生きる人々が言明する規範がいかなるものであれ彼らは自分の利得を最大化するような形で生きているとする)

規範その他の問題で興味深いのは、それが言明されるという事態と、その執行との間にある差であり、この言語化可能性ということが、問題の焦点になるのである(p.311)

  • 解釈学の場合

テクストとそれを解釈しようとする研究者との絶えざる「対話」というモデル

こうした対話的モデルを厳密に推し進めれば、民俗モデルと分析モデルという硬直した二分法は妥当性をほとんど持たなくなる。むしろそこで記述されるのは、彼らの言明とそれに対する人類学者の言明との長期的相互作用の記述ということになるからである。(p.320)

  • 解釈学の「対話」モデルの問題点

しかし問題は、こうした対話的イメージが、実際の方法として成り立つための範囲とその限界である。我々が長期的対話の過程において、我々の問いやそれに対する彼らの言明を一つ一つ丹念に追っていくと仮定してみよう。対話が長期的に進むにつれ、対話者双方の知識は増進し、その内容もより細密になっていく。このより具体的な説明のレベルにおいて、人類学者は民俗モデルが実は説明の体系としては不十分だという事実に気がつくのであるが、と同時にある時点で、人類学者はこうした当事者の説明体系自体にある種の限界があるという事実に直面することになる。つまりある種の慣習的行為については、それについての言明が不在、あるいはミニマルになり、彼ら自身もまた、単に先祖の言いつけに従っているのだ、という事態以上に先に進むことが出来なくなると言う事態の発生である。その極端な例が儀礼である。……こうした局面は、何も儀礼という特殊な行為に限定されている訳ではない。我々の社会的行為の諸側面で、儀礼に類似した形式化が様々な形で行われていることは、ゴフマンの一連の作品の中に鮮やかに示されている。(p.321)

我々の言語的能力によっては容易にアクセスできない行為の分野が存在する。それは必ずしも言語によっていちいち解説、あるいは言明化され、それゆえ「意味ある」形に翻案されるとは限らない一連の行為である。こうした行為とその重要性に対する判断の度合いが、実は解釈学的なアプローチを肯定するか、それとももっと別の枠組みを必要とするかの分かれ目なのである。(p.327)

ある所為の理由を問うことは、行為の流れの中に概念的に切り込むことになるが、行為の流れは、こうしたひと続きの「意図」を伴わないと同様、数珠つなぎになった個個別別の「理由」をも伴わない(ギデンズ、p.327)

  • 観察者の介入が、連続的である社会的行為にある切断面を設け、それが「意味」を過剰に生産させてしまうということ
  • ブルデューはこうした慣習的な(前意識的な)行為一般について執拗に理論化を進めている

ハビトゥスとは身体ー認知構造に刻印されたある種の構造であり、それは客観的な構造によって形成されると同時に、さまざまな新しい行為を生む母体ともなる構造である。当然これは前意識的であるが、構造化されているという側面において、ある種のオートマティズム、つまりそれが生み出す行動にある種のパターンを形成することになる。だがブルデューの理論的ターゲットは、常に相反する方向に二分化する論点、つまり客観主義と主観主義、分析者が作り出す、文化や規則や無意識の構造といったものに行為を還元する傾向と、逆に行為者の主観的言明に分析の中心を売り渡すこと、その両方であり、それらに対し同時に攻撃を加えている。(p.328)

行為者は、自分の実践を現実に規整しているものを見つけ出し、それを言説のレベルにもたらすには、観察者より有利な立場にいるわけではない。観察者の方は彼に比べ、行為を外から対象として把握でき、そして何よりもハビトゥスの継起的な実現を全体化できるという点で有利な立場にいる。……こうして行為者はみずからの行為の真の原因(ハビトゥス)によるのとは異なる理由を、自分の行為に付け加えることになる。(p.329)

[ブルデューの「ハビトゥス」や「実践感覚」という研究プログラムは…]行為の動因を説明しようとする際に二極化した形であらわれる図式、すなわち観察される行為の規則性からそれを統制する無意識の規則体系のようなものを想像する立場(人はそうした無意識的な規則というレールの上を走る鉄道のようなものであるといったイメージ)と、逆に人は環境に対する十分な情報を与えられ、それを最大限に利用して、意識的に合理的戦略を行うという、合理的経済人モデルやそれを政治に適用した立場との間の中間点を探すための戦略である。それゆえ、そこでは、実践的行為者の行為決定は、瞬時に行われ、「規則ー原理」や「計算ー推論」の両者が否定されて、ある種の自動的色彩が強調されるようになる。だが一方、象徴資本という用語を作り出し、狭義の経済的論理を拡大して象徴的分野にも適用しようとする彼は、この二つの軸、すなわち、よりオートマチックな反応モデルと、拡大された計算モデルの間を揺れ動くことになる(p.334)。

ブルデューの認知論的な主張は、認知科学における古典的な計算主義と、異端の一つであるギブソン系の生態学的な主張との間を行き来しているように見える。(p.337)

ギブソンは基本的に知覚作用について研究しており、……この環境世界がもつ構造が知覚者の構造を決定しており、それゆえ情報は「直接的」に「抽出」され、「計算」主義者のような情報処理の仮説を必要としないという図式をさきほど引用した。ブルデューの、推論や計算をしない、瞬時の判断、あるいは本能の自動的確実さ、といった表現と突き合わせてみると、その類似性がわかる。推論/計算がないのに、なぜこれらの判断はそれほど能率的に行われるのであろうか。(p.338)

知覚作用の前提となる環境の構成と、知覚作用そのものの緊密な関係が存在する以上、その作用自体は直接的だとギブソンはいう。より複雑な身体-認知作用の総体であるハビトゥスにとっては、こうした環境の構造に当たるのは、歴史的、文化的構造であり、それに即応する形で身体ー認知構造であるハビトゥスが構成されることになる。それゆえ社会ー環境的なニッチとハビトゥスの持つ傾向性が一致するかぎり、そこから生産される実践は、情報抽出論に近いような「直接性」を持つことになる。ちょうどギブソンが否定したように、そこには計算の概念は必要とならず、実践は限りなくオートマチックになる。(p.339)

しかし実践を構成する社会環境は、動物における生態学的な環境と同一ではない。……知覚に関する限り、いくつかの基本的条件(たとえば空気等の触媒、水や固体、面といったもの)の性質は一定であり、人間によるこれらの改変には限界があるとする。しかし社会的諸条件は、知覚に対する環境過程の安定した性質を持っていない。……ここにギブソン的なアプローチとのアナロジーの限界がある。環境1→ハビトゥス→環境2と図式化すれば、環境1と環境2の間の偏差は場合によって異なり、1≒2である場合もあれば、1と2が全く異なるような急激な社会変化が起こることもあろう。とりわけこの後者の場合、実践のオートマティズムの効率性は保証できなくなる。こういった状況においては、多分慣習的行為論自体の限界、つまりその行為自体が慣習的と描写されるだけで済まなくなり、より複雑な、計算主義的要素を導入する必要性も出てくるのだろうと思われる(p.340)。

ブルデューの認知論は、このようにして計算主義とギブソニアンの間を行き来するように見えるが、彼の言う暗黙裏の計算というのは、実は合理的選択モデルを拡大し、それを無意識のレベルに押し込んだもので、心的機構に関する認知的仮説として十分に練り上げられたものとはいえない。……その結果、ハビトゥスそのものの認知的構造は最終的には曖昧になり、様々な比喩的な表現のみがその描写のために累積されるという結果になるのである(p.340)

  • さて、問題は認知だ。では研究者の観察における認知(心的機構)の想定という問題をもう少し突っ込んで考えてみよう。(ここは面白い!)

 [当該の社会を生きる人々によって]言明される規則→実際の規則→実際の行動と考える傾向がある古典的な機能主義者たちは、観察に多くを依存する一方、こうした疑似等式を支える心的機構については、ほとんど何も考えていないことになる。そこにあるのは、「規範はいずれにせよ行為を規定する」という極めて散漫な哲学である。
 だが心的機構について仮説を導入するとなると、それを深層の構造にもっていくか、逆に意識的な合理モデルに還元するか、という様々な選択があり得ることになる。だが問題はこれらの分析モデルが、いずれにせよ観察でも、あるいは当事者の言明からも演繹できない、心的構造についてのモデルである以上、これが恣意的だ、とか分析者側の科学主義的な偏見だ、といった類の批判を常に被る危険があるという点である。この点、その中間点を行くブルデュー的なモデルは、上記の二つの曲の中間的な認知ー身体的なレベルに的を絞り、それを歴史的な諸構造の内在化とすることで、認知主義的な仮説をミニマルにするという戦略をとる。このことはしかし当然、ハビトゥス概念が心理学的には曖昧で、それ自体が事実上ブラックボックス的になっているという印象をぬぐい得ないという逆の批判を呼び込む可能性がある。
 ……しかしもし人類学者がその分析の手段として持っている武器が、フィールドワークのデータだけで、そこには人類学者が観察した事実と、当事者の言明しか入っていないとしたら、人類学者がやれる事というのはひたすら記述ー解釈を繰り返すという事になろう。それ以上の事をするには、言語学情報理論ゲーム理論精神分析、あるいは認知科学と言った分野から理論を失敬してきて、それにより仮説的に説明するという事態は避けられないのである。(p.342)

  • おわりに

だが問題は我々はいったい何処まで説明するべきなのであろうか、あるいは何処まで分析モデルを作る事を要請されるのか(あるいは可能なのか)という点である。前述したように、心的過程についてのブルデューの記述は、認知科学のいくつかの流派と微妙に交錯するように見えて、実は真の意味では認知的ではない。この点でいえば、われわれはすでに人類学→フィールドでの観察と参加→民族誌といったルーティン的枠組みを越えて、例えば諸学を精力的に動員した一般「行為」学という形で枠組みを拡大しない限り、問題は解決しそうにないのである。この領域の拡大ぶりは、しかし諸刃の剣であり、こんな拡張に不安を覚える人々は、やはり居心地の良い、解釈学的伝統にしがみつくことになろう。そしてそうする限り、人類学には膨大な民族誌が蓄積され、人類学者は、世界文化の収集者として、あるいは洗練された旅行代理店として、生き延び続けて行くことになるのだろう(p.343)。

まさに今もずっと考え続けている(というか答えの出ない)topicについて。ちゃんちゃん。

宗教がいかに進化してきたのかを科学的に説明する(ふたたび)

今日の飲み会俎上予定ネタ.かなり粗いメモだけれども.

Norenzayan, A., & Shariff, A. F. (2008). The Origin and Evolution of Religious Prosociality. Science, 322(5898), 58-62.

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・科学によって宗教をどのように説明することができるだろうか
・Ara NorenzayanとAzim Shariffは,人類学,社会学実験心理学および実験経済学の要素を結びつけて本論文でreview
・宗教的思考は不正行為を減少させ,見知らぬ者同士の信頼を強める
・あるひとつの文化内における道徳的な神の存在は,集団規模が大きさと関係がある
・仲間集団内で良い社会的評判を維持する必要に迫られたときに,宗教と社会志向的(pro-social)行動の間の関係がきわめて明確になってくる

・多くの人が多くの人が宗教は利他的行為を促進するものだと提起してきた
・実際にほとんどすべての宗教は利他的行為を薦める教義をもっている

・社会科学ではたとえば社会学者のデュルケームが「宗教は社会的集団の凝集性を高めるもの」と提起したが思弁的なお話で実証性に乏しい

・宗教は集団の適応度を高める存在だったという説明が可能
・でもこのように説明してしまうと宗教の多様性と宗教信念が歴史的に変容してきたことを説明できない

・別の2つの進化的な説明を加えれば文化的多様性の問題を解決できる

1.宗教は更新世に他の目的のために進化した(たとえば他者の心や集団内での自分の評判を検知し推論したりする)心理的傾向の副産物だったのだという説明
この心理的傾向と両立可能な宗教信念は文化的に広まっていっただろう

(Gen註:これはまさに『表象は感染する』でダン・スペルベルが明らかにしようとしていた”唯物論的基盤”のひとつだぁね)

2.集団選択理論(group-selection theory)
社会集団間での競争があったために,たとえコストがかかったとしても,(社会集団間での競争上)適応度を高める文化的信念と習慣は流布していったのだろうという説明
これは,宗教は進化の副産物だが,「他者の心や集団内での自分の評判を検知し推論したりする心理的傾向」の副産物として宗教的傾向が進化したという説明だけでは不十分だとするもの

・集団レベルでは,内集団の協力性を高めるかぎりにおいて宗教的な信念は拡がっていった
・個人レベルでは,「他者の心や集団内での自分の評判を検知し推論したりする心理的傾向」との副産物として宗教的信念が育まれていった
・宗教的な行動や儀礼は,コストがかかればかかるほど,フリーライダーを排除し,集団内の結束力を高めることにつながる
・宗教的がもつ向社会的(pro-social)作用
→血縁者のつながりをベースにした互恵的利他主義が集団の大きさに課す限界を弱める働きをもった
→宗教が存在したために,集団の成員同士が遺伝的に関係ない規模の大きな集団でも安定することができた


もう一度説明しなおすよ

・人間の社会的評判に敏感な心理的傾向によって集団内で互恵的利他主義が成立した
・この心理的傾向は宗教とは関係なく(宗教が生まれる以前から)進化してきたもの
・「こいつは非協力的な自己中心的野郎だ」という評判を集団内で立てられて集団から排除されることを個人はなんとしても防ぐ必要があった
・(利得配分の)ゲーム実験を心理学的に行うと「匿名性が減ると向社会的行動の割合が増える」という傾向が繰り返し確認されるが,この実証的知見は上記の仮説を支持するもののひとつ
・誰かの顔写真がおいてある,あるいは眼の絵がおいてある,という状況を設定してやるだけでも向社会的行動の割合が増加する

神の知覚(超越的なものの知覚)

状況の匿名性が減る

他人が自分をどう見ているのかを気にする心理的傾向が発動

向社会的(道徳的)行動を取るようになる

成員がそれぞれ向社会的行動を取った集団は,そうではなかった集団よりも適応的だった(長く残存することができた)

∴宗教は進化した

もし上記の説明が妥当であるならば,以下の4つの仮説を経験的証拠により実証しなければならない

1.宗教的献身は他者の評判を気にする心理的傾向とたしかに関連しているかどうか
2.宗教的なシチュエーションは向社会的行動をたしかに促進するかどうか
3.集団内部の,あるいは集団外部の脅威の度合いが高いときには,宗教的な集団の方が世俗的な集団よりも生き延びやすかったかどうか(歴史的検証)
4.高いレベルでの協力的な規範を安定化することに成功してきた大きな社会集団は,小さなそれよりも,人間の相互作用を積極的に監視する神という道徳的な観念を信じてきたかどうか

・高い宗教心を持つ人は実際により利他的な行動を取るかどうか
社会学の調査はこれを裏付けている(より頻繁に祈ったり宗教的な儀式に参加する人は,より寄付をしよりボランティアに参加するというデータがある)
・これは何度も確証されている(収入・結婚・政治思想・教育水準・年齢・性別などを統計的に統制したあとでもこの傾向が確認される)
・しかし問題点もある.それは自己報告式の調査ばかりだというのが問題(社会的に望ましい行動を報告するときは印象操作の側面が絡んでくる)
・そこで心理学的な(実験的な)研究をreviewしてみた
・たしかに宗教に関する因子は社会的に望ましい行動と正の相関
・ただし匿名的な実験状況を設定してやると助けを申し出た人の数に有意差なし
・”Studies repeatedly indicate that the association between conventional religiosity and prosociality occurs primarily when a reputation-related egoistic motivation has been activated"
・無意識的に神の観念を想起させるとダマシが減るという実験は追試でも確認された(死んだ生徒のゴーストが実験室にいるんだよと言われるとダマシ行為が減った)
・「超自然的な存在があなたを監視してるよ」といわれた子供は,空けるなと言われ置いていかれた箱を明けてしまう頻度が有意に少なかった

・集団が大きくなる→相互に評判を監視しあうインセンティブが弱くなる→宗教はその隙間を埋め,安定的な協力を助けた
・もしそうであるならば,神の想起は,不正行為を減らすだけではなく,見知らぬ他者への寛容さも増加させるはず
・この仮説は経済実験(Dictator Game)によって実証された
・無意識的に神の観念を想起させると,匿名の他者の間でも,寛大さが大いに増加した

この事実に対していくつかの解釈が可能
1.神の想起→状況の匿名性が減り,評判への関心が高まった
2.神の想起と利他性の想起は認知的に結びついている(are cognitively associated)
さらなる実験が必要

・とにかく,宗教心を持っているかどうかの自己報告はあてにならない(これまで何度も確認されてきたように)
・調査研究や質問紙法ではなく無意識的/行動観察的な実験が必要.

・「宗教を信じている」という自己報告はコストなしにいくらでもフェイクすることができるため,進化的な淘汰圧は,コストのかかるカタチでの宗教へのコミットメントを好んできたはず(儀式への参加,食事制限etc)
・この事態をあらわす数式的なモデルはまだ未熟なものだが,経験的な証拠は徐々に集まりつつある

・宗教的に信心深い人はより信頼できるしより協力的だと見なされる,という報告がある
・アフリカへのイスラム教の浸透は,貿易に先立っていた→上の説を補強する民族誌的証拠
・宗教への深いコミットメント→モニタリングコストを下げるし協力を高める(地理的・民族的な境界線を越えて)
・別の解釈もありうるが,質的ではなく量的な調査が必要

・19世紀アメリカで,83つの世俗的集団あるいは宗教的集団,どちらが長生きしたのかに対する研究
・宗教的集団の方がより長く持続した

・religious commune longevity

・数々のコストのかかる習慣を持っていた集団はより長く生き延びた
・宗教的なイデオロギーのちがいは集団がどれだけ持続するかに影響を与えていない
・”religious ideology was no longer a predictor of commune longevity, once the number of costly requirements was statistically controlled, which suggests that the survival advantage of religious communes was due to the greater costly commitment of their members, rather than other aspects of religious ideology.”

・集団間競争に駆動された進化は大きな社会集団を好んできた
・しかし,大きな社会集団を束ねるメカニズムが近年まで明らかになっていなかった(タダ乗り野郎を排除するメカニズムが)
・もし神の観念がタダ乗りを防ぐのだとしたら,大きな集団においてより神の観念が確認されるはず

★まとめ★

・世界中の多くの宗教は無償の愛を推奨している
・道徳的な神の想起→匿名的な状況がノンアノニマスになる→評判気にするマインドの喚起→利他的行動

・でも大きな集団での成員間の向社会的行動の傾向を高めるものとして宗教が唯一ではないだろう
・世俗的な信頼できる制度の普及(司法・警察・契約遵守の保証する仕組みetc)はごく最近生じたものだが,人間の向社会性を大きく変えてきた
・したがって,現代社会では,宗教を信じている者と同じように,ある世俗的な信頼できる制度を担う成員は,他者に対して同程度に向社会的なのかもしれない
・実験的に世俗的な道徳的権威(UNICEFとか?)を想起させると,economic gameにおいて,神と同様に,他者への寛大な行動を引き出す効果を持った


・もちろん別解釈の可能性も残されてはいるが,いろんな分野から集まってきたデータが一点に収束し始めているかのように見えるとは言える。

・宗教的行為に伴うコストを数値化して研究する必要あり

秋の陽射しで撮る写真はどこか優しくなりますね。

友人数人とお散歩してきた。すべてRicoh GX100、東京/文京区〜早稲田。

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わんこ
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大激怒
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丹下健三の代表作、東京カテドラル聖マリア大聖堂。これはもう本当に最高。(http://tinyurl.com/6m3zgy
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中に入ってみると清逸なひとときを過ごすことができる。一日中居たい感じ。かなり良い、音に酔い、空間の残響に酔い、光の勾配に酔い。文化としてのキリスト教の吐息は大好き。
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告解=Confessionでもしましょうか…
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東京カテドラル聖マリア大聖堂を抜けてふたたび秋らしい秋空を眺めたとき
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友達の眼はこんなに澄んでしまいました、とさ
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ふらっと散歩最高。

飯島耕一 「ジャック・ラカン」

ジャック・ラカン
こりゃもう あかん
方光寺の 羅漢
闇には 如何?



母親にかまってもらえなかった
その代償行為だった ラカン
たくさんの論争だった
傲慢は いかん



それでも いたるところ ラカン
アンベスィール
アヌリィ
そして ピュルゴンの輩に罵言



雨引観音 のラカン
休憩所の古畳での お結びの赤飯
同業者を やっつけ過ぎて
孤独になった ラカン



ぼくは親しむ そんな ラカン
休憩所の やかん
口飲みしては いかん
猛烈な 周期 車の窓を閉めてもあかん



豚の子が ぞろぞろ
コギトの研究はもう止めだ
脱=自由詩の
脱走だ



セックスはもうたくさん
うまい酒がのみたいね たくさん
ジャック・ラカン
こりゃもう あかん

 朝方に詩集をぱらぱらとめくっていたら、和んでしまったので、つい。